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mellow氏の反論

個別返信・その4
> これだって、両親の幼少のときの教育環境環境によって後天的に身に付けたものかもしれないですよ。そうなると判別しかねますね・・・

説明不足でしたが、僕が先に挙げた「実験」では、生まれた子供はすぐに実の両親の元を離れて、養父母に養育されるケースを想定していました。でないと、もんもさんが言われるような矛盾が起きてしまいますからね。

> (いっておきますが、こういう風にいったからといって僕が降参したわけでも証拠集めに苦慮しているわけでもないので、勝手に勝利宣言しないでくださいね)
そんなことしませんよ。

いいえ。平塚は再三の請願によって議員に圧力をかけて治安警察法の改正案を議会に提出させ、結果的に議会を通じて同法案を成立させることに成功しました。「有権者の成年男子」の力は借りていません(最も、同法案を支持する風潮を高めるための「世論」の力は借りたので(主に女性からの支持が多数だったそうですが)、間接的には「有権者の成年男子」の力も借りてますけどね)。現在の政治について言えば、アメリカのロビー活動のように(議員に対する)請願者が有権者をかねている場合が殆どなので、請願者は議員に対して圧力をかけると同時に「要求を通さないと、次の選挙では貴方には投票しない(私の仲間にも投票しないように言うかもね)」と言ってのけることが出来るので、議員への圧力はさらに強いものになり、「世論」の力を借りずとも法律などを変えることは可能になっています。最も、先に言いましたようにこういうことを繰り返すと間接民主制の原則(議員は基本的に選挙で選ばれるべき)が崩れるので、あまり多用すべきではないと思いますけども。

> ねえ、そうなるでしょ?、結局、非人道的ということになるわけで、じゃあ、それがどうして非人道的になってしまうかというと、”やはり、親というものは無意識的に実の子をよりかわいがってしまう生き物だから、子供は実の親に育てられるのがもっとも問題がない”という社会常識(というか経験則による事実)があるゆえでしょ?

いいえ。僕が「非人道的」だと思ったのは、言われるような「子供は実の親に育てられるのがもっとも問題がない」と言うような理屈が(実験によって)証明されてしまうかもしれないからです(さらに、実験そのものがそういった結果が出ることを(実験者側が)望んでいると言う誤解を養父母に招きかねないからです)。そうしたことを、「社会常識(というか経験則による事実)」などと言ってしまうことで、養子をいただいた家族やその子供自身が深く傷ついてしまう可能性があることを、僕は危惧しているのです(こうした「実験」がもし本当に行われるのであれば、それは生後間もない赤ん坊を引き取った養父母の仮定についてされるだろうことを想定しています)。

> だから、”とことんまで実験すれば分けられるんだけど、分けるまでには無限のコスト追加せねばならない。・・”という不確定原理がでてくるわけですよ。
不確定性原理は物理学の論題なので、上記したような社会学の実験にそのまま当てはめられるものではないと思います。

何故ですか?僕が「「一般的な家庭の話」と書けば、そうした論理も間違いではないですね」と書いたように、「養育能力というのは、血の通った子供相手に最大の力を発揮するのは自明」という命題が、「DVが行われているような「特殊な家庭」を除いた、平和な一般的家庭」のみについて適用されるものだと設定すれば、実際そのとおりかと言うのは全く違う次元の話としても、(上記命題は)論理としては破綻していません(真偽の判定はできませんが)。しかし、「養育能力というのは、血の通った子供相手に最大の力を発揮するのは自明」という命題が、DV家庭を含む「全ての家庭について」適用されるものだとみなせば、命題を提出されたもんもさんご自身が「DVが行われているような家庭には上記命題が適用できない」と仰られているのですから、すなわち命題は「偽」であるということになります。何か僕の理屈に誤りがありますか?
と言いますか、もんもさんは「養育能力というのは、血の通った子供相手に最大の力を発揮するのは自明」という命題が(少なくとも「平和な一般的家庭」においては)「真」であることを頑なに信じておられるようですが、全く科学的な裏づけや証拠が無い以上、それは現実に適用できるような命題ではなく、単なる宗教的信念のようなものではないでしょうか。正確な調査を行うことなくしては、その命題が「真」であることを立証するのは不可能でしょう。

> たとえば、この世には卵を食べたり日光にあたっただけで病気になる人もいるようですから、、”人間は卵を食べたり日光にあたってもさしつかえないことは自明”という論理ですら破綻していることになってしまいます。

意味がわかりません。「卵を食べたり日光にあたっただけで病気になる」のはその人の「体質」であって、人間にはさまざまな「体質」を持った人がいるのですから、卵を食べると病気になる体質の人が卵を食べて病気になったからと言って、人間全てが卵を食べると病気になる、という理屈は導けないでしょう。
といいますか、そうしたことを踏まえると「人間は卵を食べたり日光にあたってもさしつかえないことは自明」という命題が「偽」であることはすぐに分かりますね(人間にはさまざまな体質の人がいますから)。

> 話は戻りますが、実の子保育の反撃材料として、”福祉施設にあずけられた子のほうがDV被害はすくない・・”というデータを出したとしても、まったく意味はありませんからね。彼女たちはプロですからあたりまえで、育児専門家の質がいいからいって、この世の問題ある実の親の子育てを全部委託させることは不可能なのですから・・・。

意味がわかりません。「福祉施設にあずけられた子のほうがDV被害は少ない」というデータがもし仮に優れた精度で存在しているとしたら、それは少なくとも「DVが行われているような家庭にあっては、「養育能力というのは、血の通った子供相手に最大の力を発揮するのは自明」という命題は偽である」ということを完全に立証するための材料にはなるのではありませんか?「ならない」と思える論拠は何ですか?

> おもうんですが、あなたがた左翼は、ここまでして無理な政策をおしすすめてどうしようというの?自分の存在意義を維持するためですか?ぶっちゃけ食い扶持ですか?それとも、もしかしていまだにオーエンだのルソーだのといった連中の、亡霊にとりつかれているのですか?そうだったら早く気がついてください。それは夢想ですよ。どうあがいたって現世では永遠に実現しません。

なんでここで「オーエンやルソー」なんて大昔の思想家の名前が出てくるのかわかりませんが(私は両方ともよく知らないんですが、サヨクは当然教養としてこうしたものを読むものなのですか?)DVが行われている家庭が現に存在しそれが社会問題となっている以上、右翼だろうが左翼だろうがそうした家庭の子女を救うために国なり自治体なりがそうした問題の解決のために施策を行うのは、国民の多くが社会問題の解決を望んでいるのなら当然のことだと思います。それを「税金の無駄だから行わなくていい」と言ってしまうのは、社会問題の解決を望まない国民だけでしょう。勿論そうした国民が存在することと、その国民の自由意志は尊重されるべきですが、国民の多数が社会問題の解決を望んでいるなら、問題解決を掲げた国民の代表=政治家がその要望に応じたアクションを取るのは当然の理でしょう。もんもさんご自身が「そんなのは税金の無駄だから行わなくていい」とお思いなら、何らかの政治的アクションを起こしてご自分の意思を政治家に伝えるべきではないでしょうか。

> 困っている女の子をみたら助けたいとおもっちゃいけないの?困ってる女性をみて、マッチョな男が彼女を助けたくなったら、カフチョウセイとやらのけしからん思想になって、平塚らいてうが同じように思ったら、フェミニズムというすばらしい思想になっちゃうってわけ?それって変じゃない?どこがどう違うの?どこで区別してるの?同じでしょ、これって?

全然違います。元々もんもさんが仰られていたのは、「困っている女の子を見たら助けてあげたい」などということではなく、「つまり、政治運動と技術開発は、”非力な女の子を助けてあげたい”という本能的な心理を根底におくことにおいて、まったく同根ではないのか??とおもえるのですが、暴論でしょうかね。」というようなことです。誰かを助けたい、と言う心理を「本能的」と位置づけているのも問題があると思いましたが、僕が批判したのは「非力な女の子を助けてあげたい」という発想の方です。ここでは、「女の子(前後の文脈を辿ればこれはエジソンの奥様のことですから、「女の子」呼ばわりするのはそれだけでも十分失礼な話です)」は「非力」で「守られる存在」として位置づけられており、エジソンやベルの発明がそうした「非力な女の子」を「守る」ことになっている、というのがもんもさんが仰られていたことのはずです。それを僕は「家父長主義」であると言ったのです。そもそもフェミニストは女性を「女の子」などと呼びませんし、「女性は非力だから助けなければいけない」などという発想もしません。女性である(男性もいますが)フェミニストにとっては「女性は実に太陽であつた。真正の人で」あり、「今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。」(平塚らいてう)として、「女性は本当は素晴らしい才能と力の持ち主(「非力」ではない)なのに、今は男性のような他人に寄りかかることでしか生きていない(そうすることが女性の役割だと思われている)」と批判し、女性がその真の力を発揮して、(他者に依存することなく)男性と対等の立場に立つことを目標としたのです。決して「非力だから守ってあげたい」という発想には立っていません。

> 育児中の女性が生産活動ができない極潰しなのは侮蔑ではなく厳然たる事実です。片手に乳飲み子をかかえたまま心臓バイパス手術をすることはできませんし、分娩中にパトカーに乗って犯人を追跡することはできません。その間活動はできないのですからどんなに凄腕の外科医や婦人警官だろうと出産や育児の間は収入を得ることはできません。すなわち極潰しです

「収入を得ることが出来ない人間」は即ち「極潰し」なのなら、赤ん坊も老人も病人もけが人も全部「極潰し」と呼んでかまわないということですか?辞書を引くと、「極潰し」とは「飯を食うだけで、何のはたらきもない人」とのことですが、確かにこの意味で呼ぶなら赤ん坊も老人も病人もけが人も妊婦も全員「極潰し」と呼ぶことに違和感はありませんが、一般的に、「極潰し」とは働ける能力があるにもかかわらず遊んで暮らしている人(親のすねをかじるお坊ちゃまなど)のことで、故に罵倒語としての用法が殆どで、もし実際に赤ん坊や老人や病人やけが人や妊婦をまとめて「極潰し」と呼ぶ人があったなら、随分酷いやつだと言われた方や周囲の人から批判されるのが普通ではないでしょうか。といいますか、この用法ですと必死に職探しをしている失業者まで「極潰し」になるんですけど、それでかまわないんですか?

> 女性が将来結婚や出産をするかどうかなんて、現時点ではわからないでしょ?だったら彼女たちを若いうちから極端に二つの人種に分別すrひつようもないじゃないですか。(中略)当然、両者を分割すれば、キャリア希望者の賃金は男なみにあがりますが、逆に、寿退社希望組の賃金ははなはだしく下落します。

何故「彼女たちを”いずれは結婚する可能性の高い人たち”というふうに一つのまとまった集団とみな」すことが平然とできるのですか?それこそ「「女性は男性と結婚して家庭に入るべきである」という封建主義的価値観」に基づいた女性差別の典型ではありませんか?フェミニストじゃなくたって、女性だったら「あんたはいずれ結婚(して出産なり退職なり)しますよね(そうみなしますよ私は)」などと男性から言われたら激怒すると思いますけど。

> 百歩ゆずって、キャリアを望んでいて、(中略)女性も男性より賃金が低い分、家事や育児を立派になしとげているわけで、家事をあまりしない高給の男性とくらべて社会的評価は同じですよ?

あまりに自明視されているので気付かなかったのですが、「男性の仕事と同じくらい女性の家事は評価が高い」という事実は本当に存在するのですか?男性が仕事で社会的に成功を収めることと比べて、女性の家事は「やって当然のこと」とされ、それが余計に男女の不平等感を醸し出していたということは無いのでしょうか。
仮に「女性の家事は男性の仕事より社会的評価が低い」とすると、依然挙げられていた「女性は賃金が低いぶん家事をされている、だから男女は平等」という理屈は全く破綻しますね。

> 大体、仕事ができない人が出来る人より見下されるのはあたりまえでしょーが。そうじゃなかったら、人は何のために仕事をがんばるのでしょうか?

仕事というのは「出来る人が出来ない人を見下す」(あるいは社会的ステータスにより外部から尊敬もしくは見下される)ことができるからするものではなくて、日々を生きるための給料を稼いで自己実現を達成するためにやるものでしょう。人が仕事を「頑張る」のは大抵そうした理由だと思いますけど、もんもさんは他人を見下すために仕事をされてるのですか?そうじゃないでしょう。

> 管理人さんも、書籍やマスコミのような”二次元”ばかり相手にせずに、ためしに、上のケースに適合する近所の夫婦をピックアップしてみて、二人の、近所の評判でも聞いて比較してみるなどして、リアルな感触をたしかめてみたらいかがでしょうか。全然違う結果が出ると思いますよ。

「上のケースに適合する」夫婦を発見するのはもんもさんの仮説を立証することになるのですから、僕よりもむしろもんもさんがやられるべきではないでしょうか。
ちなみに僕の両親は共働きだったのですが、母は僕を産むときに仕事を一度やめてしまったので(それまでは優良な会社のOLだったそうです)パート労働くらいしか仕事が無くて、不安定な雇用と低い給与にいつも悩まされていました。家事をやるのは子供である僕の仕事だった部分もあります(母の仕事が遅いときは特に)。

> キャリアを蓄積せねば時給は高くなりません。女性は出産育児の間はキャリアを積めません。女性は男性よりキャリアが積めません。仕事の出来ない人に高い賃金ははらえません。よって、女性が男性より賃金が低いのはあたりまえです。ですが、そのぶんなまけていたのではなく、家事出産育児という大切な仕事をしていたのですから己のキャリアの低さを恥じる必要は無く、むしろ大いに威張ってよろしい。社会もそれを許容している。証拠に、井戸端で一番威張っているのはこれらの崇高な仕事を成し遂げたおっかさんどもだ。その姿に、働く男でさえも一目置いている。

女性が「家事出産育児という大切な仕事」(これは本当に大切な仕事だと思うので、男性も参加すべきと思います)をされるためにキャリアを積めなくなることこそが、社会構造の歪みであるというのが前回のコメントの趣旨だったのですけど。何故女性が「近所や井戸端で一番威張る」ために、華々しいものだったかもしれないキャリアの道を、成功への道を閉ざされることを当然だと思えるのでしょうか。それが「近所や井戸端で一番威張る」のと同じくらいの価値しかないものだと、どうして判断できるのでしょうか。

この世では理屈よりも経験の方が大切であり、女性の多くがそれを望んでいるというのならば、多分もんもさんは会社では稼ぎのいい男性社員なのでしょうから、試しに仲のいい女性社員にでも「女性は産休があるから、男性社員よりも給与が低いのは当然だね」とでも言ってみて、「貴方の仰るとおりです」という答えを引き出してみてはいかがですか。女性のキャリアへの道が、「近所や井戸端で一番威張る」のと同じくらいの価値しかないものだということを、説得的に話されてみてはいかがですか。その結果として女性社員がもんもさんの言われることを首肯すれば、少なくともその人にとっては貴方の意見が正しく、僕の意見が間違っていることの証明になるでしょうから。

己(家系)が優秀な遺伝子を持っているという証明は、少なくとも数世代にわたって、社会で実際に成功したり男どもにちやほやされたりしなければ立証されません。(中略)やっぱりそれも、”優れたとはいえなくなった遺伝子っていうことじゃね?”といえるわけだから、やっぱり自家撞着になっています。

僕に生物学の素養が無いからなのか、いまひとつご理屈がよくわからない部分もあるのですが、要するに(誤読でしたらごめんなさい)「優秀な遺伝子の持ち主」ともんもさんが言われている対象は、単なる「現世での成功者」のことであり、「現世での成功者」を「優秀な遺伝子の持ち主」と呼称しているだけであるので、その「現世での成功者」が必ずしも(本当に)「優秀な遺伝子の持ち主」というわけではなく、仮にその「現世での成功者」の跡継ぎが社会的に失敗すれば、その人が「優秀な遺伝子の持ち主」などと呼ばれることは無い(よって、「優秀な遺伝子」なる言葉に大した意味は無い)ということでしょうか?確かにそれでしたら、現世での成功者を「優秀な遺伝子を持っている」と言い換えているだけの話ですから、「遺伝子」という言葉につっかかって優生主義を持ち出すのは、単なる言いがかりに過ぎないということになりますね。

しかしながら、僕が「優生主義ではないか」と思ったもんもさんのコメントは、以下のようなものでした。

人間ってのは、若いときでも本能的に老後の(投資的な)立ち振る舞いを考えているようだ。美人の妻であれば、娘は美人だろうか苦労しないですむ。もしかして女優になって、青年実業家みたいなセレブに嫁いでくれて己の老後は安泰かもしれない。

逆にバカ嫁やバカダンナをもらえばバカがうまれる確率は高いだろう。 バカだから商売に失敗する確率だって高いだろう。家を担保に借金背負わさて老後計画がパーになる可能性もたかい。もしかしたらヤクザになって組抜け金や保釈金や被害者への慰謝料を用立てる支出もあるかもしれぬ。女の子ならば、もし不細工ならば所得の低いダンナしかつかまえられないだろうから、経済的に嫁夫婦はあてにできない。

「美人の妻であれば、娘は美人だろうか苦労しないですむ」という部分は、どうみても「美人の妻の(美しさをつかさどる)遺伝子が、娘に遺伝して娘も美人になる(確率が高い)」ということを述べているようにしか見えませんし、「バカ嫁やバカダンナをもらえばバカがうまれる確率は高いだろう」という部分は、「バカ嫁やバカダンナの(バカさをつかさどる)遺伝子が、子息に遺伝して子息もバカになる(確率が高い)」と述べているようにしか見えません。

もんもさんがそれぞれに肯定的・否定的な書き方をされているところから見て、「美人をつかさどる遺伝子」を「優秀な遺伝子」、「バカさをつかさどる遺伝子」を「劣った遺伝子」とすると、これは完全に「親の資質が遺伝子を通じて子供に遺伝し、子供の性質を決定する」という遺伝子決定主義であり、さらに本文では「人間社会は優れた遺伝子を率先して残すようにできている(だから素晴らしい)」と続くのですから、これは典型的な優生主義思想であり、一種の社会ダーウィニズムです。

百歩譲って「美人をつかさどる遺伝子」は想定可能であるとしても(親の容貌的形質が子供に遺伝するのは事実ですから)、「バカをつかさどる遺伝子」はそんなものが証明できたらノーベル賞ものは確実というか、まるで科学的根拠の無い存在に過ぎず、そのような疑似科学的な仮定を自明視しているという点でも、やはり疑似科学の一種である優生学と上のコメントの内容はかなり近しいものです。

もう一度聞きますけど、もんもさんは本当に「「世の中で成功したり美しかったりするのは優秀な遺伝子の持ち主である」と暗に言っている」自覚があるのですか?仮に、上のコメントにおいてももんもさんは「成功者を「優秀な遺伝子の持ち主」と言い換えているだけ」なのでしたら、何故「優秀な成功者」の優秀さを表現するために「遺伝子」が必要なのですか?普通に「お金持ちの人は努力や工夫をしてこうなった。偉い!」と一言言えば済む話ではありませんか?養子の話でもそうでしたけど、何故(こだわる必要が無いのに)執拗に「遺伝子」という概念にこだわるのですか?その「一種独特の遺伝子観」はどこで培われたのですか?
2007/02/25(日) 00:13:04 | URL | CrowClaw #mJxP.Gqk [ 編集]