進歩によってもたらされた効率化を搾取の強化と言い換えるサヨクの詭弁

地租改正ってありますよね。地価を基準に課税するっていうやつ、でも、農地の地価ってどうやって決めたんですか?農地の価値はそこからどれだけ作物が取れるかどうかですよね?ってことは地価=ある程度さかのぼって計算した、そこで取れた作物の取れ高の平均ってことですよね?


地租に課税するってのは、いわゆる取る側とられる側、双方がリスクヘッジされた年貢ってことですよね?


これって支配の強化ですか?どうして今までこういうことができなくて、明治になってできるようになったんですか?効率的に搾り取れたのなら、どうして江戸時代の藩は地租改正をやらなかったんですか?彼らは明治政府より人道的で博愛心に富んでいたからですか?明治政府は卑劣な強欲やろうだったのですか?時代が下るにつれて、支配者はより悪辣になってくるのですか?縄文人の狩猟リーダーは、その後に現れたどんなリーダーよりも寛容で人道的だったのですか?違いますよね?


福沢諭吉の本や留学生の啓蒙によって洋数字や複式簿記の概念が伝わり、これらの計算に役人の人手を多く使わなくてすむようになったからですよね?江戸時代以前の大福帖システムで同じことをやれば、担当役人が増えすぎて予算的にパンクしてしまうから、やろうとしてもやれなかったってことですよね?


これって、いわゆる進歩で、今で言うコンピューターの事務コストの省力化と、まったく同じケースってわけですよね?


コンピューターの進歩、物流の発達、情報の地球レベルでの把握、携帯電話の進歩による部下の営業マンの仕事の把握、監視カメラの普及、これらのテクノロジーは、上が効率よく搾り取れると同時に、民間の人々は低価格化、負担軽減などの恩恵にあずかってますよね?逆にいえば、お上が効率よく搾り取れるくらいの便利なシステムじゃないと、下々の生活だって利便性を受け取れないってことですよね?どこが支配の強化なのですか?時代につれて、下への征服力が強化されれ上が肥え太ったというのなら、時代につれて我々下の者も、自然の現象であったコストの壁や不便や猥雑やカオス状態を”征服”することに成功し、同じく(縄文時代の人や前コンピューター時代の人とくらべて)肥え太ったってこともいえますよね?


要は、上だって下だって同じ人間なのだから、同じものが便利で使いやすいと感じ、同じものが不便でつかいづらいってことですよね?あたりまえのことで何ら問題ないじゃないですか。


縄文人リーダーはエクセルや複式簿記ができないので、当然、支配下民の資産の把握が効率的に出来ませんから効率よくは搾取しませんでしたが、これは、彼が無欲で領民を愛した名君だたということを意味しません。しなかったのではなくできなかったのです。
支配下民は、リーダーに苛められるかわりに自然の過酷さに苛められていました。エクセルや簿記をこのよにもたらした、”自然を支配する武器”を持ってなかったゆえです。