働くことと生きること に突っ込み

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070403/p1#c


natamaru123 『
あなたの言っていることはまるきり間違っています。貧乏人がいつまでたってもうだつが上がらないのは誰かから収奪されているのではなく努力の仕方が人々の需要に則していないため無駄な部分が多くなっているからです。甲子園で優勝するのは1チームであることと同様、全員が全員成功者となるわけがないのでつくった商品はすべて売れず、ある一定の割合の努力は無駄になります。それを、商品レベルが足りなかったゆえのスキル障壁とみなすか、消費者の購買力に限界があるゆえ、たとえレベルが僅差だったとしても、ある程度のレベル以下のものは切り捨てざるをえないという競争の宿命とみなすかで認識が少し違ってきます。が、”努力が全部報われることは不可能”ということにかけては骨子は同じことです。


とにかく、自分が困ったり職にあぶれたり努力を怠ってしまったゆえ分け前をとりそこねたとしても、その分だれかがメリットを享受しているわけではなく、自分のポカは誰の懐に落ちるでもなく、社会の効率悪化によってどぶに捨てられ、誰をもうるおしてはいません、ヒューざーの小島社長が壊れる建物をつくってしまい、立替費用が必要となり、何千億もの損害をあたえたからといって、だれかがその何千億分だけの所得が移動してウハウハになったわけではありません、戦争で何兆円もの損害がでたからといって、誰か(資本家)の懐に富が何兆円スライドしたわけでなく、その何兆円は社会の無駄として露と消えています。バブルだの過剰な設備投資だの、商品開発に成功せずプロジェクト解散だのお店がつぶれただの医学部入ったけど何年も単位が取れず医者をあきらめるなどの努力投資の失敗、自分の失業やミスや商品開発の失敗、スキル習得の挫折もそれと同じです。誰か、たとえば、自分が失敗した市場でシェアを占めることに成功した業者、自分が落ちた大学に受かった大学生を得にさせてはいません。特にさせたとおもいこんだほうが、失敗や怠慢を自分することで社会になんか好影響をもたらしたと思い込めますのでサヨ思想は精神衛生上は非常にストレス発散になる健康的な思想です。悪いのは自分のせいではないと思い込めますので毎日ごはんがおいしく食べられめったに胃潰瘍になりません。』 (2007/04/04 20:55)


natamaru123 『
誰の懐にもはいらないので失敗は失敗、自分が成功すりゃ同じ人数分が市場から退場させられようと一人が入学できなかろうと会社をリストラされようと、世のため人のためだということ。成功するということは人々の望んでいる商品を安定供給すことに成功したということだから、人の望みをかなえたということ。だから成功をはずかしがることなく堂々と目指せばいい・・ということ。サヨにはそういう思想がないのでひとの努力思考、工夫意識を抑制しがちで社会を停滞させてしまう。無気力なため停滞を好むもの、工夫がキライな知的怠惰者にとってはサヨ思考は居心地がいい。反面、上昇志向に富む者、冒険好き、チャレンジ精神あふれる者、好奇心旺盛な者のココロは捕らえない。』 (2007/04/04 21:01)


natamaru123 『>四、 他人を働かせて、その上前をはねる。


搾取している事業体がそもそも存在していなければ、搾取されてはずの人事は誰からも雇用されず失業者になるか、もっと悪辣な事業者(売春業者、ドカタ、マグロ漁船業者)のところではたらかざるをえない状態になるか、あるいは途上国や少し昔の話ならやむなく犯罪に手を染めて処刑されているはずです。実際にしたかどうかは関係なく人をやとって搾取できるだけの事業を展開できたことは、その事業そのものが存在しない状態よりははるかに前進した状態だということです。


もし、その工場がもとから存在していず、工場があるはずの敷地に荒涼とした無人の原野が横たわり、誰も材料を運んでこず、材料業者さえはなから存在せず、業者がではいりしておらず、人間が存在していず、うんだとしてもどうやって食わせていくか計画が立てられないため労働力となる人間を誰も生まず、労働者となるはずだった素材はオナニーのティッシュの汚れとしてトイレやごみ箱に捨てられ、っていうか、昔からそうだとしたら、人類ははなからそこに存在していない状態になります。』 (2007/04/04 21:13)


natamaru123 『
>「収奪」論は間違いか

間違いです。』 (2007/04/04 21:18)


natamaru123 『よーく考えればwかります、百人の村みたいなサンプルを脳内につくってあれこれと動かしてシミュレートしてみたらよくわかりますよ、。たちまちパラドックス抱えて破綻します。っていうかそんなことしなくても実世界でて何でもいいからショウバイはじめりゃすぐわかるんですが・・・』 (2007/04/04 21:20)


natamaru123 『
失敗しても成功しても、収奪だの搾取だのが間違っていることがわかりますよ、人を雇って搾取するよりさいしょからやとわないほうが世のため人のためじゃないだろうか・・なんて考えがたちまち破綻しますから夢見がちのサヨさんにはいい薬になるでしょうね。』 (2007/04/04 21:22)


Arisan 『natamaruさん。

コメントしてくれるのはいいんだけど、なんで一回の投稿で済ませられんのですか?
そういうところが、分からんのですよ。
長すぎて投稿できないと言うかもしれんけど、後半の投稿の一回当たりの量はすごく少ないじゃない?
内容的にも、どうしてもここに書かなくてはいけないものとも思えないんだけどなあ・・。』 (2007/04/04 21:46)


natamaru123 『
>なんで一回の投稿で済ませられんのですか?


投稿した後に”ああ、これも言わなくちゃ・”と思いついた場合は投稿が細切れになることがあります。以後、気をつけます。


>内容的にも、どうしてもここに書かなくてはいけないものとも思えないんだけどなあ


そうでしょうか?凄く勝手な意見ですが、ここだからこそ書くべきだと思っています。・・・もしかして僕は、若い人がこの日記を読んで、偉くなって人を搾取するような悪人になるより怠惰になってもいいから人を搾取しない善人になりたい!と思って乞食の隠遁者になろうとするのを恐れているのかもしれません。


まあ、この考えの矛盾に気が付かぬ者が社会で有用な技術を会得できるわけがありませんから、サヨ誘惑というのは格好の人材の”ふるい”なわけで、別にほっといてもいいんですんけど・・


サヨの言ってることをわかりやすくいえばこうです。枝葉はちがいますが根っ子は全部おなじです。


”社長とかコンビニ店長とか頑固オヤジとか迷妄主婦とか安部総理とかムカツクだろ?なんかさ、ケンリョク持ってる大人たちって言ってることが変じゃね?どうしてかな?みんなマトリックスのチューブにつながれてるからなんだぜ!


だけどキミ達は奴らのいってることがおかしいってすぐ気がつくよね?どうして?マトリックスチューブから、ちゃーんと切り離されているからさ!だから我々”めざめた賢いガキ”たちが”わかっていない世のケンリョクシャ”どもに正しいことを教えてやるんだ!”


これがカルトの肝です。すべての価値を逆転させれば難易が安易になりかわり、馬鹿が利巧になりかわります。安易になれた馬鹿がなるのが難易な利巧者を高いところから見下して快感をえることができるのです。リアルではまるで逆ですからこのようなことが絶対に起こりえません。なるのが難しい利巧者より高い立場に、安易になれるわけがありません。この逆転シソウに吸い寄せられるのは利巧に圧迫され日頃鬱憤がたまっている人間です。すなわちバカでなおかつ苦労をさけたがる安易な人間です。


もちろん、ストレス解消になって耳ざわりがいいからといって正しいシソウではありまえん。



>ケンリョク持ってる世の大人たちはなんか言ってることが変だよね?どうしてかな?


正しい論理構成ができてないから、相手が正しいことを言っていても、どれがどうして正しいかわからずに、おかしなことを言ってるようにきこえちゃうんですよ!


>みんなマトリックスのチューブにつながれてるからなんだぜ!


いえいえそんなチューブなんかにつながれていません!
でも、おじさんのいうこときいちゃうとこれからつながれちゃいますよ!


>だけどキミ達は奴らのいってることがおかしいってすぐ気がつくよね?


=だけどキミ達はまだ頭がコドモだから奴らのいってることがおかしくないのにおかしいと勘違いしちゃうよね?



こういうことです。』 (2007/04/05 00:08)

natamaru123 『
なんというか・・こういう甘い考えをしているから許せないんですよ。人は、いざ社会に出たなら、こういう考えをしてははいけないと思うんです・・


>たとえば、人一人が生きるのに、「1」のものが最低限必要なのに、それをもっていない人が居るとする。その人の横に「100」を持ち、独占して人に渡そうとしない人が居る。このとき、「1」しか持たない人が、「100」持っている人から、自分が生きるに必要な分だけを奪うことは、法的には不当(違法)だろうが、道徳的・倫理的には正当であると思う。


いえ、法的にも不当なのはもちろんですが、道徳的、倫理的にはもっと不当です。
なぜなら、横の人が100をもっていることは、その隣の人が1を持ってないこととは何の関係もないからです。横の人が100をもったのは持とうとしたから持ってるわけであり、彼が100を持たなければ、持とうとしなければとなりの貧しい人が1をもてるわけではないからです。


その人が100をもっていることはその人が家族や子供や(妻以外の多数の異性たちに)にいい暮らしをさせてあげたいと人並み以上に熱烈に願っていたから100をオノレのもとに引き寄せることができたのであり、逆に10程度しかもっていない者は家族や恋人を幸せにしたいという気持ちをそれほど強く持っていなかった人間だということです。1程度ならあまり他のことに関心がない無気力な人間、それすらない者はそこにいくべきしていってしまった、ふるいにふるった残りかすです。


100もっている、成功した者がそのような感情を抱いていなければそもそもその100は彼のもとに存在していなかったわけです。じゃあ、彼が無気力で家族思いでない人だったらその100は誰か他の人のところにそっくり分配されていたのか?というとそういうわけではありません。


所得や融資先の信頼の高さなどは当人が開発したノウハウや年季、学んだ経験などの人的資源をかなりの割合で含みますから、それらは、喩えてみれば、何も建てなかったら荒野であるはずの場所にそびえた建造物のように、全くの無から作り上げたものです。(無というより価値のない原材料群からより価値のあるものが作られたということ)。


人的ノウハウのような無形のものは同じ価値をキープしたまま他人に譲れません。たとえば成功者が得意先にしている営業先に突然自分が出向いたって何にもなりませんし、成功者の職人はその人がやらないと商品価値をもてませんから、彼の技量が突然そのまま自分に乗り移るわけがありません、


そこでは、社会全体で100階の高さの建物をもっていてる人が一人少なくなれば、50階の高さの建物が60階に増えるわけでも、50階の高さの建物を持ってる人の数が増えるわけでもなく、社会全体では高くたっている建造物が少なくなるだけです。


その100持ってる成功者は、どうして100もってるのかというと、我が子に贅沢をせさたい、私立の大学いかせていい暮らしさせたい。妻に遊び呆けさせたい!という願望を実現させたわけだから、その100を使う資格は、彼の意思に忠実にのっとれば、あくまでも妻と子にあります。となりの人がたとえ生活できるだけの1をもっていなくとも貰う資格はありません。成功者が妻と子にほどほどの贅沢でよしと思っていたならば、彼はそれほど資産を増やそうとしなかったはずです。前述したように、彼が妻子を強く思いすぎていたからといって彼が誰かの建物の階数を減らしたわけではありません。


100は何処から由来してきたかというと消費者からです、彼が所有している生産物、生産(サービス)手段に高額な金を払ったからです。どうして払ったのかというと望んでいたからです。自分の欲求にかなっていたからです。ということは成功者は人の欲求をかなえた人ということです。1しか持ってない人は1しか人の欲求に答えられなかったということです。彼が答えていれば消費者が我も我もと金を出し合い、商品価格が高くなり商いは繁盛しもっと金をもてていたはずです。


豊かな隣人が、100が99に減っても困らないから、自分が必要分をもっていないからといって貧乏人が直接隣人から1を奪うことは道義的にも法律的にもできません。ですが間接的には許されるでしょう。中間に資産分配を仲立ちする機関をつくり、100持ってるひとから1提供することを強制させ、それを間接的に隣人に1配ることはかろうじて許されます。というわけで、世の中に”強制分配機関”である国家というものが存在することを許されてきたわけです。ですから国家を否定することは分配を否定することです。というわけでアナーキストが国家の消滅を謳っているくせに貧民への分配をあきらめていないということはまるきり矛盾しています。貧民への分配を肯定している人ならば安易に国家を否定することはできないはずです。言っていたら人気取りのお題目とか革命の下地作りといわれても抗弁できません。』 (2007/04/05 02:02)


natamaru123 『100持ってる人は業界二位の30階もちのもつべきシェアをある程度奪ったから100に増やすことができたのでは?と言うひともいるかもしれません。ですが、客のシェアは直接でなく間接的に奪い奪われの関係にあります。』 (2007/04/05 02:08)


natamaru123 『
>では、カネを手に入れるためにはどのような方法があるだろうか。

原理的にいえば四つの方法がある。難しい話ではない
>最初の「カネをもらう」というのには、いろんなケースがある。たとえば、家族に扶養されていたり、生活保護をうけていたり、ヒモだったり、「パパ」がいたり、寄付や補助金をもらったり、といったケースだ。


これだって勤労してる納税者、親、パパなどの”誰か”から金を奪っていることには違いないから3と区別できませんよ。もらってるかわりになにかサービスしてやってると思ってるなら相殺されて1じゃないといいはれますから自己申告になりますね。奪う相手が同意してたり身内だったり顔がみえなかったり、弱者っぽいイメージがあれば1で、”もらう”となり、相手がワルそうだったり強そうだったりしたら、”奪う”とブンガク的に表現してるだけで性質は区別不能ですよ?


っていうか実際、浮世ではぶっちゃけ1、2、3、4っては全部同じですよ?ぐうたら社員は社長に給料泥棒だとおもわれてるから社長からは1だとおもわれ、社員は自分はあくまでも2だと思い、社長は仕事とってこようと金一杯もらってるからあこぎな奴だということで、4だと思ってる・・結局、自分から見て都合よければ自分は2で相手が4してると都合よく思い、他人は他人で、他人から見たら自分が1や3をしてると都合よく思ってるわけで、あくまで相対的なもんで区別は全くつきませんよ?



>自分以外に窮乏している状況の人がいたら、自分の取り分を、それが自分の取り分になった経過が賃労働の結果であろうとなかろうと、その相手に分配することが「正当」なことの基本だと思う。


正当でもなく基本でもありません。北朝鮮経済がふるわないのも寒地やスラムにすめば生活に不便で教育機会や雇用に恵まれないのも、職場や利便性の高い建物から遠かったり暖房やばい菌の除去に生活費の高い割合をつぎこまねばならないなど、そのシステムが持つ非効率さたまものであり、分配で解決できるものではないからです。


また、有利なところにいけば有利に生きられ、不利なところにいれば不利にしか生きられないというのは誰だってわかっています、非効率システムへ自分の身をおくことが不利であることは承知のうえだということです。じゃあなぜそこにいるんだといわれれば、ほかにいきたかったんだけどそこにいくしか道が無かったんだとしか言えません。


分配で解決できていれば、そもそもその人は条件のいい職業や温暖地域や職場近接地への居住などの”効率のよいシステム”へ身をおくことをとっくに許されていたはずで、当然、援助も必要としなくなっているはずです。効率よいシステムへ入ることが出来なかったからこそ非効率なところへ行くことしかできなかったのであるから、つまり彼そのものが(金を融資させて店ひらかせたところで客が来ず潰してしまう、金になる知識をおぼえさせても覚えられず教育費をどぶに捨てる、単純作業しかできないなどといった)非効率なシステムそのものというべき存在なのです。彼に何がしかの分配をして多少優遇したところで、水がザルからダダ流れになるがごとく金やコストは全くの無駄となります。非効率な者は非効率の原因を解消することにコストを投じない限り、単に維持費を援助したところで永遠に効率的にさせることは出来ません。』 (2007/04/05 02:44)


Arisan 『natamaruさん。

そうですか。
「ここだからこそ書くべきだと」思っているのですか。
分かりました。もっとも、あなたにはそういう場は他にも結構あるみたいだけど。
ぼくは、自分が書いていることが、そんな影響力を持つとはとても思えませんが、まあ理由は分からないけど、あなたにとっては「どうしてもほっとけない」ということなんでしょうね。
なら、それ自体は仕方ない。
「乞食の隠棲者が増えると困る」というあなたの危惧は、ぼくはそういうふうに言ってるつもりはないけど、ぼくが伝えようとしていることと、まったくずれているわけでもないので、あなたが反論すること自体を、「言いがかりだ」というふうに否定するつもりはありません。


それと、あなたが何度にも分けて投稿してしまうのは、「性格」みたいなものだということですかね。まあ、それならこれも仕方のない面はありますが、気をつけていただきたいですね。前にも書いたように、場合によっては削除などの措置をとることがあるのは、すでにお分かりと思います。仕方のない行動なのか、意図的なのかを確定する材料も、こちらにはないわけだし。
あなたは自分のしていることが、あなたなりの正義にもとづいていると、もしかすると思ってるのかもしれないけど、自分の信じる正義のためならどんな手段をとってもいい、ということにはならないでしょう。あなたのやり方は、度を越していますよ。


えーと、あなたが書いてる「カルトの肝」とか、「ストレス解消」ということですが、それはあなた自身のことのように思います。
ぼくの方は、ここに書いているという行為が「ストレス解消」になるということはありません。
次に、「社会に出たらこういう甘い考えを持ってはいけないと思う」という意見ですが、とても真面目に言っているとは思えません。ぼくの書いてることが「甘い考え」だということは、ぼく自身はそうは思わないけど、あなたがそう感じるのならそれは仕方がない。しかし、なぜ「そういう考えを持ってはいけない」というのか?
あなたの言う「甘い考えを持たない」ということの帰結はなんですか?現実にこの世界で困窮したり死んでいく多くの人がいるということに目をつぶって、自分を正当化し、社会をいい方向に変えていく努力をしないですませるといいうこと、いやそれだけならいいけど、他の人たちがそういう疑問や不満をもったり発言することを抑圧するというだけのことではないですか。それなら、たとえ「甘い考え」であっても、そういう考え方を持つべきであるとぼくは思うし、少なくともそういう考え方のあることを人々に発信していくことの方が意義があると思います。


それから、「100」と「1」の話ですが、ぼくもある人が「100」持ってることと、別の人が「1」持ってることとが、関連してるとは言ってないわけですよ。それでも、分配しなければ死んでしまうのであれば分配するべきだ、というふうな話。
だから、これに関連してあなたが書いておられることは、ぼくには別に関心がない。
それから、引用した文中の「1」の方法も、結局「奪ってる」ことではないかというのは、ぼくもそうだと思います。「1」の方法で生きている人だけが特別だ、とはぼくは言っていません。ただ、そういう生き方について考えることが、すべての人が生きていることのほんとうの姿みたいなものに、気づくきっかけになりうるというふうなことなんです。
個々の人の生存のレベルでいえば、資本家や労働者も、「パパ」を持ってる人や物乞いと同様に「もらってる」(奪ってる)わけだから、そこで線は引けない、同等だということなんですよ。
だから倫理的に言うと、どういう立場の人も「分配」ということに取り組んでいく責任がある、みたいなことを言いたいわけです。
あなたの書いてることは、なにもやってもいないうちに、そこの努力を放棄しようという話なんだよね。


ていうか、そもそも「奪う」とか「収奪」という概念に対する疑問が、このエントリーのテーマだったんだけど、そこは全然読み取ってもらえなかった、ということだよなあ。
ここでのぼくの基本的な考えは、「収奪」ということがあったとしても、それが根本的な問題ではないはずだ、ということ。
別の言い方をするなら、かりにその社会に「収奪」がまったくなかったとしても、そこで飢えや貧しさや絶望や過労のために死んでいく人がいて、それが放置されているのなら、その社会の仕組みは間違っている、ということです。


ひとつ思うのは、「もらう」という捉え方や、「分配」ということの価値を認めない、あなたのような考え方を推し進めていくと(あなたは極端な例だろうけど)、あなたの言ってるようなひどく偏狭で自他の生存に否定的な考えにたどり着くのではないか、ということです。
そういう意味では、あなたがこういうふうにコメントを書き付けてくれることによって、ぼく自身の言うべきこと、考えるべきことの方向性が、はっきりしてくる感じがします。


それと、あなたは他の人があまり口に出さないところまで、こうして執拗に述べ立て続けているわけで、そのことは、そういう現実のあり方に対する危機感というか、圧迫感のようなものをあなたが強く感じていることの裏返しなのかもしれない、とは思います。』 (2007/04/05 22:25)


natamaru123 『
僕も少し考え直しました、自説も矛盾をかかえていることに気が付きました。金持ちから貧民への分配をも収奪である、上から下への収奪もありうる、収奪には区別がないといっておきながら自説がこれに沿っていなかった。分配がなくて、飢えているものがいる状態ならば、”収奪が行われていないから正しい社会なのだ”とはいえなくて、飢えているものが金持ちから”収奪”すべきで、それが許されるのだ・・ということですな。なるほど、理解しました。』 (2007/04/16 00:07)


なたまる 『
しかし、これこそが社会主義思想のキモですな・・認めるか認めないかで社会が大きく違ってきます。イスラムは認めてるみたいですね、認めれば貧困はある程度救済されるがモラルハザードがおこる。認めなければある程度貧困層が切り捨てられるがモラルハザードがおこらず社会は停滞せずに漸進する。だが長い目で見た場合、富裕者の余裕がもたらす雇用の創出や発明品の創造によって、貧困者が絶対軸でみたばあい引き上げられる可能性がある。(=格差のある国の貧民のほうが格差のない停滞国の貧民より豊かにくらしていける)と。』 (2007/04/16 00:11)


Arisan 『なたまるさん。

可能性は、たしかにあるかもしれません。
ただ、たとえば戦後、今日に至るまでの間に相当な技術発展があったと思うけど、アフリカの状況などはむしろひどくなってるじゃない?ということは、技術発展を可能にする資本の増大というもの自体によって、環境や地域社会の破壊などによるマイナスの影響も大きくて、結局はそちらの効果の方が大きいのかもしれない。


たとえば富裕者の余裕が「雇用の創出」をもたらすということも、産業の構造や技術発展の程度にもよるわけだから、一概にそうなるとはいえない。
技術発展の意味自体は否定しないけど、それが貧困者を救うことにつながるかどうかには、ぼくは大いに疑問があるのですね。


そして何より、「将来こうなるだろう」と言われても、いま現在死んでいくひとたちがいること、ふえつづけることの容認を、それによって正当化できるのか、ということです。
ぼくは、単純に、現在のシステムの中で不幸な人たちが生み出されているから、この人たちを救済することを考えよ、と言いたい。そこを押さえた上で、「未来をにらんでどうするか」ということを考えるのでないと、理論や観念が現実の人たちの生を犠牲にして信奉されるという、それこそ社会主義の最悪のパターンの再現におちいると思います。』 (2007/04/16 00:30)


阿臆斎 『
冒頭の、カネを手に入れるための4つの方法を見てみると、私たちの収入というものが法や社会の上に成り立っているということがわかります。
経営者であっても賃金労働者であっても、生活保護受給者でも、「法の庇護や社会の支えの無い未調整の純粋な収入額」というものは存在し得ないということです。


何かヒット作を生み出し一夜にして巨万の富を得る者は、著作権や特許といった制度や、些細な差別化がなされた商品の需要を生み出す大量消費社会など、幾重もの手厚い支援の下でなければその富を得られないわけで、法制度や社会から得た恩恵の額は零細な町工場の経営者より遥かに大きいでしょう。


企業経営者1人が株式会社制度や市場経済から受けている恩恵の額は、日雇い労働者1人が受けている福祉政策の恩恵の額より遥かに大きく、労働量の差では到底埋め合わせできないわけで、企業経営者が「自分は自力で収入を得ている」と胸を張るのも、貧困層を「福祉政策によって不当に収入を得ている」と批判するのも滑稽なことです。
社会がよりよくなるために、片や功績者に恩恵を与え、片や貧窮者を救済する。同じことです。』 (2007/04/16 06:58)


natamaru 『
>ただ、たとえば戦後、今日に至るまでの間に相当な技術発展があったと思うけど、アフリカの状況などはむしろひどくなってるじゃない?ということは、技術発展を可能にする資本の増大というもの自体によって、環境や地域社会の破壊などによるマイナスの影響も大きくて、結局はそちらの効果の方が大きいのかもしれない。


技術発展がアフリカを悪くさせているのではなくて、むしろ”関連がない”のではないでしょうか?


科学が発展しようがしなかろうがアフリカは人間が生きるのにツライ地域で、できるなら人はすむべきではない。学問積んだり発明を思案したり、ばい菌の対策に費やす時間が多かったりして人類の生存するには効率的ではない。これは自然科学的、地理的な問題で政治は関係ない。、


酷暑やばい菌感染による我が子の死亡や己の病苦を嫌い、水辺居住による飲料水のおいしさや、それによる健康や長寿や子孫繁栄を心地いいと感じるのは人種にかかわりなく誰だって同じである。アフリカが過酷な地であるというのは昔も今もかわらない。昔のアフリカは太陽光線量が半分だったとか昔のほうが水がたくさんあって涼しかったとかいうわけじゃない。解決するにはアフリカを涼しくさせるよりも自分のほうから涼しい地域に移動するしかないわけで、己が豊かにいきようとおもうなら侵略や移民をしてでも地中海沿岸に移住すべきである。


アフリカという土地は、象やライオンでなく人間としてうまれたきたならあんまり住むには遠慮したい土地で、暑さに強いはずの当のアフリカ人だって好き好んで住んでるわけじゃない。彼らが暑さに慣れてるのは、涼しいところに住む権利を勝ち取ることに失敗したという、やむにやまれぬ事情からであって、できるならかれらだってイタリアやキプロスあたりの地中海沿岸にすみたいと願っている。


アラブ人はおなじようなことをおもっていたので昔はそこに住めていた。



涼しくて水がキレイでたくさんある場所に誰だって住みたい。でもそういう場所はごく限られてるし、みんながみんな住みたいとおもっているから、そういったオアシスを巡る戦争があって、その勝者しか居住をゆるされなかった。あるいはオアシス居住権というのが一種の高額な権利になっていて、地価が高くてある程度の稼ぎを用意しないととそこに住むことができない。ユダヤは沿岸温暖地帯の居住に成功して酷暑砂漠に住むことを免れ、逆にアラブ人やアフリカンは十字軍との闘争やグラナダ陥落やイスラエル建国によって白人によって水辺を追い出され、水がなく暑く乾燥したところにいやいや住んでいる・・・と。


結局、暑かったり水が泥水の場所は生存や発展に不利で、涼しかったり、飲める水があるところはいきていくのに容易であるという構造の違いの問題なわけで、これは根本的なものであって、これを解決する手段は冷房の効率化や浄水器の開発などの科学の発展にしか望めないのではないでしょうか?』 (2007/04/16 16:47)


Arisan 『ナタマルさん。


アフリカが人が住むのに辛い土地になったというのは、近代以後にとくにそうなったのではないですか。
そもそも農作物の生育などを考えれば、アフリカの方がヨーロッパより「豊かな」大地だったと思うけど、支配者になったヨーロッパは、その環境と地域社会を破壊し、文化を破壊し、その土地にもともとあった「豊かな生活」のための独自の仕組みを破壊した。


大枠でいえば、いまのグローバル化のなかで起きてるのと同じようなことが、何百年か続いたのでしょう。


自分たちで勝手にルールをおしつけておいて、そしてその場所にもともとあった生活の仕組みを破壊しておいて、「俺たちが助けてやる」というのは、おこがましいでしょう。


でも、あなたの歴史観を聞いてると、むかし勧誘された「何とか教会」の宣教師さんの話を思い出すよ・・。』 (2007/04/16 23:08)


natamaru123 『
コンゴの徴税が過酷だったことは知っています。ヨーロッパで商売になる作物の単作を強制して植え付けたことも承知です。作物もヨーロッパよりは育つでしょう。ですが植物が繁茂しやすいということは同時にばい菌も繁殖しやすいということです。酷暑が奪う体力も大きく、涼しい地域より余計にカロリーを必要とするし、日照りや水害対策のコストもばかになりません。作物が育つところが即豊かな地域とはいえないと思います。


また、文明が停滞した地域は、ヤギ放牧や木を切りすぎてしまったことで砂漠にしてしまったということもあるでしょう。それと、肉体労働と穀物収入が主だった昔と違い、頭脳労働が主である現在は、酷暑地域は効率よいデスクワークを達成するうえで何かと不利であることは否めません。


その証拠に、アメリカやハワイ移民はきいたことがあっても、ソマリア移民なんて聞いたことがありません。やっぱり生きていく上で赤道直下よりイタリアやハワイ辺りの緯度のほうが産業が起こしやすいのでしょう。』 (2007/04/17 00:28)



natamaru123 『

極論ですが、そもそも生物というのは外と内でエントロピーを減少させ”格差を拡大”しながら生きていく装置といえるわけで、とりわけ人間は住居やら子育てやら調理やらをして自然状態と”格差を作りたがる”生き物なわけで、生きてりゃ格差がでてくるのは人間社会の宿命といえます。


住居を作れば外気温と内気温に差が出来ます。いわば外と温度の”格差”をつくって己を生存さしているわけです。住居とは、皮膚の外と内での温度差をもっと外に敷衍したものといえます。


また、そこらへんの水からろ過したり熱したりして飲み水をつくり、飲めない水と性能面で”格差”をつくり感染症を防ぎます。これもまた気温の格差製造と同じです。


もし全員が家をもてなくて、村人の一部しか家であたたまれないからといって、家の壁をぶち破り外界と家の中の音頭を同じマイナス30度にして全員をホームレスと同様にぶるぶる震わせ平等化しますか?また、飲み水がどうがんばっても10人分しか製造できなくて、住民が100にんいたとしたら、水が飲めるひととばいきんうようよの水しか飲めない人で格差が発生するからといって、飲める水を飲めない水のなかにぶちまけてばい菌だらけの水を100人分作って”水質を平等化”しますか?


そんなことしても無駄でしょう。せっかく苦労して家を作ったのだから、温まれる人が全員でないからといって家の壁を壊す必要はなく、せっかく飲める水をつくれたんだから、限られた人でもいいからほかと混ぜずにそのまま誰か10人に飲ませるべきです。


生きるために労力を投じて設けた、自然状態と人為的状態の”格差”は、それが不平等を作り出したとしても、破壊しないほうが利巧だということです。


また、格差の拡大といえばそれまでですが、そもそもあぶれた人というのが実際に存在してるのかどうか怪しいものがあります。彼らは生きていられないはずだからです。


作れる水の人数分や家を持てる人数分だけしか人は生き延びれないはずですから、水の量や住居の量が生存を許容されうる住民世帯数とひとしくなるというふうに自動的に調整されているはすです、だから、呑み水や家にあぶれている人というのは実際にはほとんど存在していないはずです。


死なないのみ水が飲める人とそうでない人の格差は一日かぎりではなく、何年、何十年、あるいは何世代にもわたって連綿と続くはずです。階級の固定化、格差がありつづけることも否定できません、水場や快適住居、快適土地は限られているわけで、おいしい水が飲める人ができれば、その人はいきながらえて浄水システムを改良できる工学博士か、あるいは疫病対策の医学博士になるかもしれません。そうなれば今までマズイ水しかのめなかった人も救済できます。全員がまずい水をのんだり家がなかったりして格差をもたなければたしかに社会は平等でしょうが、みんな早死にし誰をも貧困から脱出できませんし、博士のような、脱出を手助けできる力を持った人も育成できません。格差をつけてでも誰かを豊かにしなければだれをも豊かにできないということで、これは前述しました。


簡単に言えば、家や飲料水などの快適システムが一部にしかいきわたらないからといって、そのシステムをこわしてまで平等化しなくともよい・・ということです。


それと、もうひとつ、


地球上のカロリーを人類の数でわったら一人あたり味噌汁何杯分という、世界の格差を説明するために多用される情報は、地球上の海と陸を全部平らにしたとしたら海底数百メートルになるとか、地球上の山脈を全部たいらにして残土で海を埋め立てれば耕作適地が膨大に作れるという情報とおなじで、まるきり内容が無く、また、知ったところで意味がありません。


実質達成するためには無限の労力が必要となるからです。


格差解消はブルドーザーの土ならしとは違うと前にいいました。土でなく硬い岩で地上に高低の差があって、それを全部平らにならすとすればダイナマイトを数兆本必要とするなど、膨大な労力がかかります。格差解消も同様で、格差を地ならしすることに使うコストの膨大さが、貧困者の生活力を奪い、さらなる貧困を生んでしまう可能性もあるわけです。山脈を平らにして耕地をつくる労力とおなじです。



たかが格差の解消に人類のエネルギーのすべてを使うのは割にあいません。そんなものは放置してひとりひとりが自分のためにがんばったほうが、よほど一人一人の生活レベルが底上げされて貧困は自然解決します。



一億もってる金持ちと一万の貧民との格差を解消するには、スイス銀行用スパイ千人、脱税監視用の腕利きマルサ職員が一億人、KGB並みの暴力組織の細胞が国民一人あたり千人など、理論的に不可能なほど多量のマンパワーを必要とします。すべての国民が生産活動を停止し朝から晩まで不眠不休ではたらいて数億年間これらの職務にあたれば、一年の間だけ、一億の所得が8000万くらいに減り、貧民が1万から2マンくらいになるくらいの格差の解消は可能になるでしょうが、投じた労力のわりには益がすくなすぎです。達成したところでどうなるもんでもありません。また、誰も生産しなければ誰も食っていけないので国は即座に滅亡しますのでダブルで無意味になります。』 (2007/04/17 03:43)


natamaru123 『

>たとえば富裕者の余裕が「雇用の創出」をもたらすということも、産業の構造や技術発展の程度にもよるわけだから、一概にそうなるとはいえない。
技術発展の意味自体は否定しないけど、それが貧困者を救うことにつながるかどうかには、ぼくは大いに疑問があるのですね。


科学の進歩が貧困者をすくうかどうかわからないけど、技術開発をおこたることが貧困者をすくうことにはつながらないのでは?環境破壊をもたらしたのも科学なら環境破壊を食い止めるのも科学の力でしか不可能です。科学によって引き起こされた損害を科学の放棄で達成できるわけがありません。パンドラからでてきた力はパンドラを空けた力ででしか制することができない。。。


我々が足を止めることは貧困者を豊かにしません。富裕者が勤勉をやめて怠惰になったところで、貧困者は助かりません。一見助かるようにおもえてもそれは短期間に限定された錯覚にしかすぎません。


たしかに先進国がポカをすれば、多少の顧客を途上国の輸出業者に与えることになるでしょう。ですが、そのぶん車はこわれやすくなりテレビは火をふきやすくなり、業界レベルが下がり消費者が損をします。


それをみとめてしまったら業界すべてにいえてしまいます。トヨタ自動車が怠慢になればホンダを助けることになるわけで、この世のすべての怠惰がライバルを得させることになりますから、人を助けたけりゃ己が怠惰になればいいということになり、こんなラクな理屈はありません。

世界最大の慈善はなにもせず乞食になることになります。昔のヒッピーがこれに近い考えをもってました。

乞食になれば、己がビルゲイツにならずにすみ、かれが稼ぐはずだった一兆円をビルゲイツに与え、また、本来はがんばったら野球選手になれたはずが、そうせずに怠け、本当は自分が入団するはずだったレッドソックスの投手の座を松坂にわけあたえたのですから。。。こう考えると、世界の乞食はいったい何兆円もの架空の稼ぎを放棄して成功者にわけあたえてjくれたことでしょう・・・

ぼくもあなたも、ひとのやくにたちたかったらぼけーとして乞食になりましょうってことになります。


でも、この考えは間違いです。


乞食になるくらいだから成功者とは縁遠いのでしょう。ゲイツとライバル争いするなら乞食なんかになっていずにどこかの会社の副社長くらいになってないとおかしいはずです。松坂とライバル争いするくらい肩がいいなら、こんなとこで乞食になってるのは変です。最低でもどこかの球団で二軍にはいってなければおかしいはず。


努力を投じた割に案外恵まれてない。ノースキルでノーリスクでなれる乞食より労多くて益なしです。ある程度努力をどぶに捨てる程度にがんばってないと勝者を扶助してることにならないのです。


乞食が20分投球練習をして、あっとうまに厭になり、おれが大投手への道をあきらめたことによって、大投手の座が一つ空いて松坂がそこにおさまることが出来たんだ!だから俺は松坂の誕生をある程度助けているのだ。奴は契約金のいくばくかを俺に与える義務があるのだ!・・などと乞食が主張していたら基地ガイあつかいすることでしょう。その理屈でいったら、毎日20分づつ世界中のセレブの挑戦分野への練習につぎこみ、ちんたらちんたらやってあっというまに挫折したとしたら、ほとんど労力をつかわず世界中のすべての成功者から金をせびることが可能となります。でも、サヨと言われる人もこれに近い詭弁を使っているのです。


サヨ思想=乞食思想の誤った考えというのはどういうことかというと・・・・


失敗者や怠惰者は架空の稼ぎを放棄しているわけで、膨大な雇用と得意先をマイクロソフトに寄進していると考える。同じく倒産した企業、すぐにこわれるインチキ商品を開発して倒産した企業家も、ソニーなどの既存の成功企業に顧客や信頼性を無料で寄進しているわけで、マザーテレサ以上の慈善事業者という評価になる・・と。これがサヨ思想の肝です。


で、個人についても同じことが言える。職人の腕のワルさ、商人の愛想の悪さ、風紀の退廃、教科書読んでちんぷんかんぷんな頭の悪さ、なまけ、欲しいものをすぐ買う、我慢の欠如、仕事中の飲酒、殺人、泥棒、レイプなど欲望に即した犯罪は、失業したり商いを失敗させますので、自分が大富豪になるチャンスや顧客を得るチャンスを成功者に分け与えたことになります。よってこれらがビルゲイツの誕生を助け、社会に成功者を増やします。つまり個人の害悪は社会に益をもたらすという考え方です。


経営能力の欠如がたくさん集合すれば、少しづつ社会に寄進物が集積さえ、それがたくさんあつまれば、一人のビルゲイツが誕生するのです!いわば、進歩は怠惰の集積体なのです。


さあ、あなたが自動車屋さんにつとめていれば、車の修理をもっといいかげんにしましょう!あれこれ工夫せずぼけーとしてましょう!チャンスを逃がせば空いた雇用や顧客リストが社会に蓄積され、それが膨大になればマイクロソフトソフトバンクのような大企業がほっといても誕生します!


そして誕生したら、俺たちが会社つぶしたり首になったりして怠けたから今のおまえがあるのだ!と理屈をつけて成功者たちから金をせびりましょう!松坂大輔も同様です。自分がもっと投球練習をがんばっちゃったら、もしかして松坂以上にになれちゃったかもしれない!そうなると松坂は契約金をもらえなかったかもしれない。自分たちが練習のきびしさにやんなっちゃって野球やめちゃったから、松坂は大投手になれたんだ!だから松坂は日本全国の野球挫折者の100万人に金を配れこのやろう!


これがサヨ乞食思想です。


客の満足が高い商品を開発することは社会を進歩させることです、ですが企業がそれに成功してしまったら絶対になじみの顧客を得てしまうでしょうから、絶対に他人の倒産を誘発します。他者の倒産は社会を後退させるとするなら、自分が進歩に貢献すれば社会の進歩を阻害することになり、そんな変な理屈はありません。


これは割合の問題で、自社商品のレベルアップすなわち社会の進歩は、他者倒産誘発、雇用奪取などのもたらすマイナス以上のプラスがかならず社会にもたらされているということです。自社の雇用の増大、省力化によって消費者が長時間拘束から解放され、他のことに専念できてそれが社会をすすませる原動力になる、古臭い雇用を奪うと同時に新しいタイプの職業を誕生させるなど・・


だって、そうじゃなきゃ、企業が優秀な商品を開発すればするほど社会は衰えていくはずだもの・・・でも、現にそうなってはいません。政府は進歩を保護するために商品開発を禁止してませんし、商品レベルが日に日にアップしていても別にわれわれは停滞してるわけではありません。その逆で、おおいに豊かになっています。


途上国も一種の輸出業者であり、世界中の顧客を先進国メンバーと奪い合う立場ですから、先進国が商品開発に失敗することを喜びます。ですが、これは業界バトルでの話であって、ものを作っている業界ならばどこでも存在するあたりまえの構造であって、別に問題ではありません、。どんな業界と同じようにもちつもたれつであり、弱いものは、強いものから合弁事業、技術移転などの恩恵もうけとっています。



ぼけーとしてて人の役にたてて。がんばることはライバルを苦しめるので害になる・・・・普通、がんばらなくては人の役にたてないのに、がんばることを放棄すれば人の役にたてて、逆にがんばれば人に害をあたえるというのなら、だれだって怠けていたほうが気分がいいでしょう。己の怠惰が誰かの役に立ったら、おおっぴらに怠惰になれる。もしそうだったら、”俺が怠けたからおまえは助かってるんだぞ!恩に着ろ!”と威張れる。


とにかく、これらは全部あやまった考えです。気分がいいからそういう風におもいたがりたいってだけです。実際の世の中は違います。誰かの失敗はライバルの台頭をたすけましょうが、そのらいばるだって自分だけをライバルとしているわけではありませんから、自分の失敗が必ずライバルを得させるとは限りません。自分が失敗したとしても他のライバルが失敗してなければ特定のライバル者は全く特になってはいません。


失敗や挑戦放棄は社会のむだが増えるだけで、怠惰によって社会になんらかの富は蓄積されません。ですから、挑戦してライバルや途上国を苦しめ、他人が就職するはずだった雇用を削り、競争参加者を増やしすぎて社会に過当競争をまきおこして悪化ささるよりは、挑戦せず、ひきこもりしていたほうが善人だ!・・・という乞食サヨ思想は間違いです、ひきこもりや怠惰を正当化する詭弁にすぎません。


就職を辞退して他人に寄進できる雇用はどんな人だろうとたった1ですが、挑戦したことにより他人を雇えるかずは実質無限大です。そもそも就職したがってるのは自分だけではないので、自分がかならず雇用されるというのでなければ辞退した数量だって1以下にしかになりません(求人倍率が10倍だったら自分の辞退寄進額は10分の1)。ひきこもっていればマイナスもプラスも一定数だが、挑戦したほうがマイナスよりもプラスのほうがかならず多くなる。だからしゃかいぜんたいでは引きこもっている人が多い社会より、挑戦した人が多い社会のほうが豊かになる。だからひきこもり<<挑戦 なのだ。自分が食っていけるようになれば最低でもひきこもっていたと同様の1の雇用が社会にうみだされます。自分以外の人を雇えるまでに市場を開拓できたなら、己がひきこもって誰かにプレゼントした雇用分よりはるかに多くの雇用をうみだせているということです。


この考えこそがアンチサヨクの思想なのです。みんな、こうかんがえないといけないのです。


それなのに先進国の尻ごみや停滞が途上国をたすけるなどとサヨっぽく考えるから話が変になってしまうのです。病人やひきこもりや乞食を”他者から顧客や雇用をうばってないから”といって礼賛し、雇用や顧客をかかえている健康者や経営者や真っ当な社会人や先進国を”ひとからうばって生き長らえている、こいつらがモノをてばなして底辺に転落すればそのぶん病人や乞食はたすかるのに”といってさげすみ、前者を彼らより上のランクにおきたがる考えと同じです。』 (2007/04/17 16:22)