倫理的であること に 突っ込み!

>たとえばぼくの場合には、原告たちが街頭に立ってビラを配っている映像を見ても、行って配るのを手伝おうと思うほどには倫理的ではないが、その姿に心が痛むという事実を否認しない程度には倫理的なのである。

一方世の中には、手伝おうとしないばかりか、そのことに疚しさを覚えているという事実(つまり、自分のなかに倫理的な生の芽があるという事実)を否認したい人もおり、その人たちの一部は、他人のなかに芽生えたものまで摘んでしまおうとすることがあるのだ。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20071224/p2



ええと・・・。arisanさんは、彼らを手伝えばこの世がいいほうに向かうのだということを感じ取っていながら、自分は手伝おうとしないんですね?


だけど、僕と以前かわした話の内容によれば、弱者を救済できる具体的な技術を何ひとつもっていないんですよね?そして、それを習得しようとも思ってはいないんですよね?


で、自分は、彼らをみても”うっせー邪魔だどけ!”とおもっていなく、あーかわいそうだなーたすけたいなーとおもっている”から、自分は何かしら世の中によいことをもたらしている。。と。少なくとも、彼らを邪険に思っている人よりは・・・・というふうに思ってるのですね?

はっきりいいましょう。その考えは間違ってます。

かれらがすくわれれば世の中はよき方向に向かうなんて当たり前のことは、言われなくともみんな知ってますが何か?”


もちろん、街で通り過ぎるたくさんの人たちにも了承事項ですが何か?


”いくらおもっていても実際にやってないならば、たとえ、本人がそう思っていたというのが事実だとしても、おもってもいないこととおなじである”というような約束にしないと社会は崩壊しますが何か?


だってそうしないと、”やれなかったんだけど、おれはやろうとしてたんだ!、だからミスを許せ!”などと、勝手な自己申告が許されてしまい、”そのとき人が思っていたかどうか”なんてことは証明ができっこないのだから、この問題は収集不可能になってしまいますが何か?


街行く社会人の人たちが彼らにたいし無関心そうにみえるのは、本当に無関心だだったりこころのなかであしざまにののしってるわけではなく忙しいからですが何か?だからといって、その状態が望ましくない状態なわけでもなく、彼らもちゃんと弱者の役に立てているんですが何か?



だからといて、彼ら”通り過ぎる勤労者たち”が無関心なわけでもなく、ましてや、”他人の心の中から生えてきた生の芽”とやらを摘み取っているわけでもないんですが何か?


どうして関心持ったり直接行動おこすことを薦め、通り過ぎたり社会人として救済と別分野ではたらくことを蔑む風潮が社会にわきおこるかというと、そう思わせないと弱者救済をうたい文句にして檀家をあつめマージンを稼ぎ取ってる連中が失業してしまうからですが何か?


じゃあ、どうして街の人たちは彼らをすくわないのかというと、自分が直接彼らをたすける活動をしたって、慣れない仕事だし自分はほかに得意なことをなりわいといていて、そのなりわいによって(=働くことによって)税金をたくさん払い、社会に余剰を作り出して彼らを救済可能になるだけの税収が国に入り、彼らを助けることが可能な状態を作り出す・・という状態にまでもっていくほうが、トータルでは手っ取り早いし、より多くの人を救済できるこ(つまり効率がよい)ことが本能的にわかっているからですが何か?



だから、街の人が彼らに対しとりたてて救済のリアクションをおこさずとも、彼らが目先の仕事を懸命に処理しているならば、彼らが無慈悲とはいえませんが何か?


プロ市民よりも、実際に、自分、あるいは囲ったオンナや銀座のねえちゃんたちや妻子のためだけを思って、他人のことなどこれっぽちもおもわないで、たんまり金をもうけようと思っている強欲な市井の社会人のほうが、結果的に多額の納税が可能となり、それによって国は救済事業することができ、困った人たちをたすけることが出来ているわけで、結局、強欲オヤジのほうが、思ってるだけで無為無策の心情的プロ市民より、社会に多くの善行をもたらしていますが何か?



強欲でなく、ひとをいじめることを極端に嫌う善人は、営業マンになれば他人を蹴落として上に上がろうとせず、その結果勤労意欲がわきおこらずノルマをとれず首にされ、なかなか就職できずずっとニートで、そのため金を稼げず、納税する余裕も募金をする貯蓄も無く、困った人たちを助けようとする意欲は絶対にあるはずなのに、困ったひとたちを助けられる立場には永遠に到達し得ませんけど、これだって、”本人は人助けしたいと思ってるんだから、認めてやれ!”とでも?



たとい困った人をたすけたくとも、たすけられるだけの経験や知識が無ければたすけられませんが何か?


たとえば、弱き人たち無料で医療や糧食をあたえて救う村を運営したとして、その村がクマに襲われがちな場所にあった場合、頑丈な柵をつくれるような建築の知識や、クマを撃退するだけの腕力が無ければ、困った人が食い殺され、救済事業を行うことが不可能になり、彼らを助けるどころか不幸にさせてしまいますが何か?


また近代的なたとえをすると、弱者救済の組織を運営しようにも、ヤクザや詐欺師にたかられてしまってあっさりと組織がつぶれてしまったら、救済事業は続行不可能なので、ヤクザと渡り合ったり詐欺にだまされないような賢さや経営能力は人を助ける能力といえ、その欠如は、弱者をますます弱者にさせる悪といえますが何か?



その能力や人材は、募金や介護といった、ボランティアの直接行動以上に、必須なものですがなにか?その経営ややくざ撃退、クマ防止柵建築、インフラ整備というものを俗に仕事といいますが何か?そしてそれらを出来る人、日ごろからやっている人を、日本語ではプロ市民とは呼ばすに、社会人といってますが何か?だから社会人は何も街頭で叫んでいる困った人たちの前を素通りしたとしても、日ごろの仕事をし、この近代文明を支えることによって、十分に弱者救済事業を行っているといえますが、この状態に何かご不満おありですか?



ありさん氏がもし社会人でないとしたらの話ですが・
氏の状況をまとめてみますと。


心のそこで思っている。だが実際に困った人を助ける活動はしていない。


社会で働いて納税や預貯金捻出によって、彼らを助けているかというと、そうでもない



残るは、”自分は、彼らを哀れんでいる”という”思い”だけ



ありさんが社会に対して善行してると認めるのなら、宅間守石原都知事が”いやいや俺だって弱者を助けたいんだ!”といったら、石原はいい奴だ!とみとめざるをえなくなる。



なにしろ、望ましくなった状態を”思ってればいい”のだから・・・たとえ本人が何をしていなくとも、あるいは、望ましいことと反対のことをしていても・・・


まあ、これ以上書くときりがなくなるのでやめとくわ。


と思ったけど最後に一つ
”食品製造会社や知事など、必要事項を任された現実の組織や人物が失敗しながらやっていくことよりも、なにもしないでいることのほうが勝っている”とかんがえているならば、それは間違いですからね!