サヨクが”これはネットウヨ”とレッテルするものの中身は、右翼でもバックラッシュでもなく単なる”世間の厳しさ”


現実ってもんはそりゃあ、ガキの頃にノートの裏に書き留める ”作詞 自分”の詩の中の、自分にとって望ましい夢の世界に比べたら地獄そのもので、その中で生きてみたいとは到底おもえないしろものだろう。だからといって世間のオトナたちは、ただで人がラクに暮らせたりすることが嫌いだから、あるいは、お金を払ったり重労働することが好きだから、飯を食うために高い金を払ったり家のメンテナンスに苦労しているわけではないのだ。たのしい夢の世界をよりも、ふがいない現実のほうが好きだから、ふがいなく生きているわけではないのだ。夢なんぞがいくら魅力的であっても現実には何のメリットももたらさぬから、現実がものーーーーーーーすごくふがいない状態から、努力によって、ものーーーーーーすごくふがいない状態という、”−”が一つ減った状態になっただけでも、ベッドの暖かさが増えたり、雨漏りが抑止されたりして、ちょっとでも安楽さが増し、なんらかのメリットが享受できるからだ。



理想は現実環境がそれほど悪くない人にとって無意味なモノだ。それよりも現実をちょっとでも前進させるほうにエネルギーを注いだほうが得なのだ。かわいいコをゲットしたいという衝動が出てきたら、ブラジルやイタリア人は町にでりゃいいのから、かわいいオタク絵を書くことに高いモチベーションを保つことは難しい。一方、ブサイクのキモ男ほど、女の子のイラストを可愛く書くことが出来る。自分の力によって現状をなんとかできてしまう、独立心高い自営主の集団や起業したくてうずうずしてる若者たちにカルト宗教は浸透しない。地獄のように悪い環境の国民ほど夢のように素晴らしいマニフェストかかげる指導者にたなびいてしまう。過酷な環境にいる民族ほど持ってる民話は素晴らしい。陽気なハワイ人やラテン系の人々はどうせろくな民話をもってないだろうということは想像に難くない。だからといって、民話が素敵な人々の住んでる地域が、素敵な環境かといったらそうではない。マニフェストやイラストも同様だ。ブラジル人の書くイラストの女より日本人のキモブサ男が書いた女のほうが平均的にかわいかったとしても、街中を歩く日本人女性よりもブラジル女のほうがブスではない。