ひさびさの記事

久しぶりに記事を書きます。



南京サヨの陥る誤謬の一つとして、

某場所である残虐なことをしでかしたという容疑をある人物がうけたとすると、


その人物が
A すなおにその容疑を認めたとしたら、
彼の性根はその容疑内容の”目を背けたくなるような残虐さ”と正反対に残酷から縁遠く、



逆に、
B 彼があくまでやってないと言い張れば、
彼の性根はそのうけた容疑の残酷さと同様に、残酷である


というふうに、容疑の認否の有無(+罪状の内容)を本人の資質と同列視してしまうというものがあります。


これは論理のインチキです。よく考えてみれば事件の内容と、その事件の容疑をうけた当人の資質は何の関連もありません。



たとえばある事件が、猟奇的に乳幼児を殺すといった、目を背けたくなるような残虐なものだったとして、ある人がその容疑を否認すれば彼は赤ちゃんが殺されても眉一つ動かさぬ非人道的な人間ではありませんし、逆にある人が、やってもいないのにその容疑を認めたとしたならば、”彼は赤ちゃんに対してやさしいこころをもつ人道的な人間だ”と決め付けられるわけではありません。


前者がどうしてあかちゃん殺しを自白しないかというと、自分はその犯罪をやってないからです。殺された赤ちゃんに同情できぬ薄情者だからではありません。また後者は単にバカなだけであって、彼が、赤ちゃんがころされたらかわいそうだと思ったから自白したわけではありません。


この論理で行けば、南京サヨがよくつかう”南京否定派はレイプされた女性がどれだけ苦しいか理解できないのかっ!!!””などといった糾弾文句がいかに的外れであるかがよくわかります。南京否定派がサヨどもの謝罪要求を突っぱね続けているわけは、彼らにレイプのむごさに対する理解が欠如してるからではなく、冤罪を晴らしたいという思いからです。


落語風にいうと



じゃあ何か?おまいさんの理屈からいえば、ある男に”一億円盗んだな”という嫌疑かけといて、で、そいつがシラを切ったとしたら、おまえさんは”そいつは人の金盗んでも平気な神経してる人非人だ”と思って、逆にやってもいねえのに罪を認めたら、”そいつは盗まれた人の痛みがわかる清らかな心の持ち主だ”って思うのか?
そんなヘンテコな理屈おかしいだろボケ!


って感じでしょう。