日本の美しき伝統「働けない奴は死ね」に突っ込み


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>個人の「主体性」の中に「勤労は善である」という価値観を組み込むことにより、勤労が不可能なものに対するいかなる仕打ちも正当化できる、プロレタリアによる封建的社会主義とでも言うべきか。


いろいろとしちめんどくさい理屈こねまわしていますが。何をいいたいのでしょう、俺は働きたくない!ってことでしょうか?ちゃんと働く人を認めない!ってことか?

どうして”働かなくても人間と認めてくれる”理想社会がこの世に存在してないのか?理由は一つです。

○個人レベルでは、
働いて金をもらえないと生きていけないからです。

○社会レベルでは、
働いてないと働いている人並みの消費をもらう権利がないというふうに決まりごとをつくらないと、社会全体で、だれもあえて働こうとしなくなり、国富が蓄積されず、そんな道徳律を持った民族や国家はモンゴル人やロシア人にたちまち攻め滅ぼされるか、連中に滅ぼされるとわかって軌道修正するかどちらかなので、どっちみち、そんなおめでたい道徳律を持った国や民族は今に残っていないからです。

環境がそれを許さないのです。

連中の住んでるところはマイナス40度近くになります。ジンギスカン時代のモンゴル人は西部侵攻したときモスクワの冬はあったかいと感じたそうです。信じられません。あそこがあったかいと感じる人は普段どんなところに住んでいるのでしょう?というわけで、彼らはいい土地を虎視眈々といい場所をねらってます。日本は特に危ない。近海で魚がいっぱい取れますのでイルカも跳ね回っています。天国です。水もタダ同然で手に入りますので子供を幼少から水汲み労働に拘束させる必要も無く、上手くいけば大学院までいかせることができます。というわけで、世界では、”J1とJ2の入れ替え戦”が頻繁におこっていまます。もちろん日本はJ1を防衛するほうです。

>この考えが正しいとか正しくないとかは別として、こうした発想の根底にあるのは「人間(社会人)は働いて生活の糧を得るものである」という思想ではないか。そして、日本においてはこの思想がその「逆」の思想、つまり「働いて生活の糧を得られないものは人間ではない」という考えの根源になっているのではないか。

逆じゃ無くて対偶では?

表:人間(社会人)は働いて生活の糧を得るものである ○
逆:働いて生活の糧を得るのが人間だ △
対偶:生活の糧を得ていないのは人間(社会人)ではない。○
裏:人間でない者は働いて生活の糧を得ていない。△

△は必ずしもいえない。働いていても人間とみなされていない人がいるかもしれません。

人間=働いて生活の糧をえている生き物  でなく
人間<<働いて生活の糧をえている生き物   だからね

でも、最初の道徳律って、みんなそれほど強烈には思ってないきがする。
今はロシアに攻めほろぼされる危険性も少なくなって、昔ほど徹底してないような気がするが・・

たとえ自分の意志で働いていなくとも、その生産力にみあった低い水準の消費に身をおいている者なら、他者の生産物=己の消費物 だから釣り合いが取れていて、人間とみなしていいという余地が世間に多少はあるのでは?と思う。おもいつくのは乞食、修験者、小乗仏教の出家僧で、もう飯をくわない”死んだ人”というのも広義で入るとおもう。社会は彼らが何も生産してないことを特にとがめてはいない。だが、彼らが人並みの贅沢をしてるなら目を吊り上げて怒り出すと思う。もちろん、不可避の理由で働くことができない人も十分に人間とみなしていることは間違いない。

だから、
1 ”たいして働いていないのに、分不相応に多い消費(贅沢)をして、他の生産者に負担をかけている者”

2 かつ、 ”意識的にそれを行っている者”(不可抗力的にそういう状況にある人たとえば妊婦、老人、事故者は除外)

の両方を満たす者は人間とはみなさない・・ということではないだろうか。
これならば、とりわけ非難さるべきものではないと思う。世界的にみても珍しくない考えだ。

しかし、主体だなんだのと、いまだにいわしのあたまをあがめたてまつってるんだから進歩してないよな。ホント。