決定的投稿の掲載

以下は3月16日にaspeman氏のブログにnata名義で投稿したものの改良版です。後に削除され、この投稿に前後したコメントは話のつながりがわかりにくくなってしまいました。


この投稿に改良をくわえ26日深夜に投稿したものがあったのですが、先方にとって都合がわるかったのかしらんが再び削除されてしまいました。

こめんと

http://d.hatena.ne.jp/natamaru123/20070324/1174756637#c

約束どおり質問に答えましたのでもう一度載せてみます。今度は削除されないはずですよね?(削除したのは4度目ですね。何度おなじことを言わすのでしょう。ほかのエントリーに既に書いたけど、削除されるかもしれないので保険としてここにも書いておきます。なお、僕が自分のブログに書かずにここに書いている理由はnatamaru日記のリンク先に書いてありますのでよくよんどいてください。というわけで本題に入ります)


http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070319/p2#c
でのやり取りの継続です。

あるいは
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070305/p1
であなたが言った

>ふ〜ん。ということは、あ な た に は こ こ で 南 京 事 件 に 関 し て 私 に 「恥」 を か か せ る だ け の 用 意 が あ る わ け で  す ね ? ではさっそくはじめてください。

という要望ヘの答えでもあります。



でははじめたいと思います。


まとめてみますとこうなるのでしょうか?



山本七平の主張=技術的に不可能 資質は無関係=
日本刀の性能や日本軍の装備からして技術的にありえない、
日本兵が残虐だろうと戦場心理は非日常だろうと関係ない。
やろうとしてもやりようがないのだから、虐殺があったはずがない。



ネットウヨの主張=資質的に不可能、技術的に不可能という確たる証拠は無い=
日本の兵隊さんは素行が良かったのだ!
でも技術的にありえたのなら疑惑は完全に払えない
ええい、ありえたと主張してる奴はみんなサヨだ!



●natamaruの主張=技術的には可能、資質的にも可能。動機もある=
だからといって、虐殺があったとは言い切れない、
彼らが虐殺しなかった可能性もある。



●肯定派の主張=技術的には可能、資質的にも可能。動機もある=
だからあった可能性が高い。っていうかあったのだーーー!



●数学やさん=技術的に可能という証明がない
(不可能とは言い切れないが可能とも言い切れない)
確たる動機も見当たらない、資質は不明=
(いわばあいまいがゆえの消極的否定)

技術=いかなる手段で大量に殺せたのかが立証できていない。
動機=当時の日本は中国人絶滅政策をおしすすめていたでなく
日本軍に殺す理由が見当たらない。



と、こういうことですね?理解しました。



だけど、あなたは


”>要するに私が問題にしているのは、khideakiさんの議論が「ありえない=必然性がない」を前提としている、ということなのですよ。それがおわかりになりませんか?”


といってますよね??ここでの議論は最初から、”ありえる”と”ある”は明確に分離されておりません。ありえるっていえたら、あったことになるっていうのはおかしいのでは?”ということは僕がはじめて出したものです。



さらにあなたと同類のbluefox氏は


>、「結果として」30万に達した可能性を否定しない限り「30万虐殺はどう考えてもありえない」と結論づけることはできないはずですよ。


「といってます。”技術的に可能ならば虐殺した可能性があるじゃないか!”。というきわめて単純かつ幼稚な論法で、この人は僕の言っている矛盾を抱えています(っていうか当人のブログにおいて僕がそういった矛盾を指摘したコメントをしたところ、即座に削除&アクセス拒否されました)。


これを論破するには、山本七平のように”技術的に日本軍には虐殺が不可能だったので絶対に虐殺はなかったんだ”と証明するか、”技術的に可能だったからといって、必ずしも虐殺が実際にあったとはいえないのでは?、だから日本軍が虐殺したとは言い切れないのでは?という風に論を持っていく必要があります。


数学やさんとしては、やる理由が見当たらない、大量虐殺が技術的に不可能かは証明できないが、可能という証明が出来ていないのでゼロにまでは出来ないが、消極的抵抗として、虐殺の可能性を極力低くさげようとしている・・というところでしょうか。まえに僕が”テポドンに対するパトリオット””シーツを汚そうとする行為に対しての、シーツを一点のしみもなくキレイにする行為”に喩えたとおり、悪魔の証明を晴らすにはこの作戦しかありません。いわゆる数学でいう分子が0でなく定数で固定されているが分母を無限大に引き伸ばせるので限りなくゼロに近くできるというLIMIT(極限)の概念です。


あなたの言ったことをもう一度くりかえします。


>ここでの議論ではただの一度たりとも「南京で30万人が虐殺されたのかどうか」は問題にされていない。問題になっているのは一貫して「30万虐殺はありえないのかどうか」


この部分だけを読むと”あったかなかったか”ということと”できたかできなかったか”を明確に分離できているように感じられます。ですが、残念ながらあなたはこういってしまってます。


>ご指摘の通り「必然的でない」は「可能である」を否定しません。三十万人殺害が「ありえない」というのは「三十万人殺害されていないことが必然である」(=絶対に南京で30万人は殺されてはいない)と”言 い 換 え る こ と が で き ま す か ら ”、青狐さん御指摘のように”「結果として」30万に達した可能性を否定しない限り「30万虐殺はどう考えてもありえない」と結論づけることはできない”わけですね。

などといっています。なんか正しいように感じられます、ですが微妙に間違っています。なぜなら、”いいかえられる”といってしまっているからです。厳密に言えば絶対にいいかえられません。



30万人殺害がありえない⇒三十万人がころさていない ということはいえてます。ですが、この矢印は”ならば”を意味していて、=(イコール)ではありません。だから矢印の前の言葉を後に、後の言葉を前の言葉に言いかえることはできません。


三十万人殺害が「ありえない」<(不等号)<絶対に南京で30万人は殺されてはいない


というふうに、右のほうが範囲が広くなってるからです。


左が右に完全に含まれていれば、両者は”ならば”で結べます。が、これを逆にして右ならば左だ、とは必ずしもいえないので言い換えることはできません。あなたの指定したように、三十万殺害がありえても実際には南京で三十万が殺されていないケース(・・A)が多分にあるからです。


だから、左のことばを右のことばにまるまるおきかえて同じ文句を発したとすると、Aのケースを含んでしまい論理がおかしくなってしまうのです。


あなたは後から言った弁明では、自分は”ありえる”と”あった”をちゃんと分離して話し合ってた!と言い張っております、しかしながら昨日言った言葉では” あった”と”ありえる”を混同しているのです。完全に跡付けの言い訳で、論理破綻をしているというわけです。





>だから、左のことばを右のことばにまるまるおきかえて同じ文句を発したとすると、Aのケースを含んでしまい論理がおかしくなってしまうのです。



っていうか、これこそが肯定派の詭弁のキモなのです。


論理学の初歩の初歩を学べばわかるとおり、表が正しければ待遇は必ず正しいが裏や逆は必ずしも正しくはありません。


彼らは正しい表の言葉を待遇にせず逆、つまり前後をただ逆転させただけの、必ずしも正しいとはいえない言葉におきかえ、表も正しいから逆も真なのだ!と惑わせ、”虐殺はありえるが実際に虐殺しなかった”というケースをさりげなく前提のなかに含めてしまいます。それでもう一度同じことを言ってしまえば、虐殺がありえたことが虐殺があったことにまるまる転化されてしまい、虐殺がありえたことで虐殺があったことを証明できてしまいます。


これこそがマルクス主義者やサヨク連中が数十年にわたって無知なるものたちに使っていた騙しのテクニックです。ですからみなさん。惑わされてはいけません。


右辺で”絶対に”と断っているのだから必要十分条件になっていてイコールで結べるのでは?だから右と左で言い換えができるのでは?と思う人もあるでしょうが甘い甘い!単なる机上の論理ではそうなりますが、極限の概念を使ったり、実際問題として考えると、30万人殺害がかなりの高い確率でありえても、実際に30万人が殺された可能性が限りなく低いというケースはかなり多くあるからです。実際問題として、この世にもしやったとしたらできてしまえることは数限りなくありますが、その中で実際にやった(起こった)ことってほんのわずかですよね?


だからかなり高い可能性でできてしまうけど、実際にはだれもやってないことはたくさんありますよね?、たとえば100人のひとがいて、100パターンのやりかたがあるけど、100人がそれぞれ1パターンを選択するとしたら、一人は100のうちの1パターンしかやってなくて、あとの99パターンはやれるんだけどやってないという、まるきり手付かずの状態なわけですよね。南京の問題もこれと同じだとかんがえればいいのではないでしょうか。


僕はこの前の休日に卓球もテニスも水泳もクルマ掃除も墓参りも可能だったけど、実際に行動したのはその中の一つだけです。ほかはやれたのですが実際にはやってません。それぞれの行動は、やればできてしまった可能性は限りなく高かったでしょうが、かずあまた選択肢があるなかで実際にその任意の個別の行動を選択した可能性は、選択肢の分母がおおければ多いほどすくなくなります。
(おしまい)


約束どおりあなたに恥をかかせました。これでどうですか?百人斬り騒動で深く傷ついてしまった方々のお気持ちが少しでもおわかりになりましたか?



(削除してもかまいませんけど、無駄ですよ。また載せますから・・・それがいやだったら、たやすく反論されるような破綻した意見など最初から言わなければいいのですよ。


削除しているのにまた載せるなんて卑劣と思う人もいるかもしれませんが、南京百人斬りのご遺族の方々だって、その”一見正しそうだが良く考えると破綻した意見”に数十年もの間いじめられてきたのですから、僕らが肯定派にこのくらいのことをしても全くバチはあたらないとおもいます。)