先のエントリーへの補足・実効性について に突っ込み


下のエントリーにこう書いたのだが、考えるとこの「実効性」ということも判定が難しい。

何をもって解決とするか、ということである。

たとえば、「ホームレス自立支援法」のような法律を整備、運用することで野宿者の数が表面上減ったとして、それがほんとうの解決になるか。現実的に「ほんとうの解決」ということにつなげるためには、現状の把握にもとづく幅広い議論が必要で、そのためには机上の計算だけでなく、やはり生きている他人の生命や生活への気遣いという「直接的な情動」の部分がやはり必要だ。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070420/p2

こめんと

>たとえば、「ホームレス自立支援法」のような法律を整備、運用することで野宿者の数が表面上減ったとして、それがほんとうの解決になるか。


野宿者を野宿者にしないことが目的ならば、法律によって、現に野宿者の数が減れば、それはいいことにきまってるじゃないですか。何をごちゃごちゃ考える必要があるというのですか?単にいちゃもんつけたいだけなんじゃないんですか?


それを、”たとえ達成できたとしても真の解決になってない”と文句をつけるのなら、じゃあ、どうすりゃ真の解決になるというのですか?


1 Aの解決を目指し、成功する
2 Aが解決したとして、根本的にBは解決されていない。と文句たれ
3 Bを解決しようとして今度はAが解決されなくなり、また永遠ループ


物事ってのはなにごとも投入できるコストに限界ってもんがあるんですよ?投じたコストにたいしてメリットがそれにみあっていればそれでよしとしなきゃ、永遠に物事は解決出来ませんよ。



>しかし、それだけで人間の生に関する問題が解決されるわけではなく、


現に、他人が困ってる人本人にたいしてそれ以上のことをしようが無い、それくらいが関の山(=限界)だとするならば、法の整備や現金の用意や毛布の配布をできさえすれば上出来であって、それ以上の解決をのぞむなんて考えることはまるっきり無駄じゃないのですか?どうしてココロの問題など絶対に解決不能なところまでかんがえをおよぼして話をややこしくしてしまっているのですか?毛布や現金を配布可能なシステムが現世に構築できればそれでよしとすることは、何かいけないことなのでしょうか?世知がらいからダメなのでしょうか?だからココロの問題まで行かねばならんのですか?でも、個人個人の心がけなんて国家の政策や他人が踏み込むことはできず、よって、絶対に解決不能の問題となりますよ?これって、不毛だって思わないのですか?


乞食問題をまとめてみますが・・


職がなければ食えません。職はこの世に無いわけではなく、いくらでも募集しています。


○科学を発展させる天才、
○緊急手術できる医者、
○会社をまかせられる管理職。
レッドソックスで20勝をあげられる投手


などです。これらは極端に不足していて、もし自分が適合していたら引く手あまたで、ニュースや雑誌をみれば、年中募集されています。


乞食が、一試合投球して打者をおさえることや、死に瀕した患者や20人規模の会社の部署の運営を突然まかされれば途方にくれるでしょう、なにをしていいかわからず、連続ホームランを打たれたり患者を殺したりたちまち会社に一億円の損失をあたえてしまうことででしょう。だから乞食は乞食してるのです。投球や手術や経営判断ができていたら乞食なんてやっていずとっくにどこかの病院の医長などに抜擢されているはずです。


病院の医長の待遇と乞食の待遇どっちもえらべるとしたらどっちを選ぶ?といわれたら全世界の人間は前者を選びます。ということは、やれば外科手術ができるのに、己の空腹や体の臭みに快感をかんじるゆえにあえて乞食を選択している者など絶対にいないということになります。


自殺マニアや、乞食のヒマを好むマニアはいて、そういった趣味のサイトは多少はありますが、飢餓や、我が子の栄養不足で餓死においやる悲しさに快感を覚える同好サイトが世界中見渡しても一つもないことがこれを証明しています。


確かに、”飢え死に仲間募集!三日間腹になにもはいってない快感ったらないぜ!病み付きになる!貧しいのあつまれ!不潔な環境で生きてハンセン氏病になって苦しみたい!アフガンの乾燥地獄でのどの乾きを味わおうぜ!”。。などというサイトはみたことがありません。この世には、自殺サイトや手足切断嗜好者のサイトまであるのに・・・・



というわけで、アフガン居住や我が子の餓死、病苦乞食への”就職”は、よほどのことがないかぎり、望んでその環境にいる人はいないということは明らかでしょう。


この世に会社の経営と外科手術できる人材しか必要なかったとしたら、乞食にはなに一つやらせる仕事がありません。乞食が出来てしまうことが高度技術者によって一秒でできてしまえば、乞食がどんなにがんばってなしとげたとしても前者よりも価値が低いものとみなされます。


乞食だけではありません。途上国の地方農民やアフガン人、高山の民族やツンドラ狩猟民など、我々にとってあまりうらやましくないような環境に住んでいるひとたちについても同じことが言えるのです。才能があってばりばり稼げてしまえるひとにとっての我々平凡人も同じようなものです。どうしてそんな不遇なところにいるのだろう、飲み水がたやすく手にいれられて、洪水や日照りに苦しめられずに済み、もっとラクに稼げる地域にいけばいいじゃないか!とおもうでしょう。乞食同然のだんなに毎日暴力をふるわれる妻についてもおなじことがいえます、そんなひどいオトコとくらすより、奴とわかれてもっとましなオトコと結婚すりゃいいじゃないか・・ましなおとこなんていくらでもいるだろうに・・・


やればラクになるのにどうしてそうしない・・のではなく・・・・やってもできないからそこにいるのです。やってできたらとっくにそうしてます。


暴力うけるのをこのむ女性なんていません。やさしい男はみんながみんな嫁になりたがります。どんな女性でも稼がなくて暴力を振るうオトコに嫁入りして飢えと虐待に苦しむよりも、毎月一億円を小遣いでもらって毎晩やさしくしてもらう男のほうを好みます。全世界の女性がそうおもうので、暴力乞食の嫁は全く競争が無く明日からでもなれる一方、やさしい金持ちオトコへの嫁の候補者の倍率は数万倍にのぼります。女性同士が激しい競争になり、えっちのテク競いや媚び売り大会などで、暴力夫との生活に耐える苦労に匹敵するほどのすさまじい競争を潜り抜けないとやさしい金持ちオトコの妻の座をゲットできません。それが厭なら暴力乞食の嫁になれということで、どっちも苦労することにはかわりありません。商品と同様にオトコも市場原理によって均衡するというわけです。


オトコだけではありません、恵まれた住環境、高い賃金の職場、みなそうです。いい環境へ住む権利や勤める権利は人気があるゆえに競争が激しくなり、ゲットの苦労が悪環境へ住む苦労に追いついてしまうのです。いい環境や職場が、悪環境や悪い職場で苦労するよりましならば挑戦したほうがとくですので、人は挑戦したがります。競争参画の苦労が、悪い職場や環境での苦労に等しくなるまで増大します。


人間は足があります、職場はシステムの性格上、SOHOオフィスをのぞけば集中した場所にありますので、通うには人材のほうが職場の近くに移動するのが普通です。工場設備を住民密集地に移動させるより人のほうが工場にある場所に移動したほうがはるかに設備的の増設が少なくなるので効率的だからです。ということは、高い給料の仕事がしたけりゃいくらでも職場の近くに住んだらええがな・・という理屈になります。


ですが、この世の全人類に際限なく職場近接居住権をみとめてしまうと収集がつかなくなりますので人は国を作り国境をさだめて、ある一定の範囲内の人しかすめないよう”移動権”に制限を加えます。権利の敷衍には地理的な限界があるというわけです。中国など広過ぎるところでは、農村と都市部とで分けて、国内で制限をかけています。


だから国家や国境が出現するのは民衆が限られた公共資産をつかう権利を守るためのごく自然の現象なわけであって、サヨクのいうように、シハイシャの暴力によって民衆の権利をうばって強制的に打ち立てられたものではありません。


こういう感覚は、町内の自治会にでも参画して子弟の通学を見張るため見回りなどをすればつかめることでしょう。どんなでかい国でも町内会の延長線上にあることが体感できます。


また、教育施設もケンリョクからの強制によって発生したものではなく、保育所と同様に、コミュニティー(国、地方、地域、町内会)の需要から自発的に発生し、専門家への委託へと発展しただけの、、きわめて素朴で自然なシロモノであることがわかります。


長くなりましたが、結論からいえばサヨ思想は人の脳の中か紙の上にしか存在しなくて、実際の世界に出てばとたんにそんなものに煩わされることがなくなり、実のある楽しい人生をおくれる・・ということです。これをヒヨッタとかケンリョクに媚びてだめになったとかんがえちゃうと、またもとの世界にもどっちゃうので、そういうふうに絶対に考えんな!とにかくだまされたとおもってしばらくしのいでみろ!考えるのはそれからだ・・ということです。


どうせインテリなんて仕事させたらのろまでもっさりしてて人並み以下の働きしかできないんだから、ほんとはたいして頭よくないのは自明の理。だったらひとりで考えてたって正しい結論になんかたどりつくわけあらへんがな。浮世でちゃんとやっていけてるそこらへんのあんちゃんに考えさせたほうがよほど正しい結論にどりつけるがな。だけどあんちゃんは人生の無駄なのでわざわざ考えてないだけだがな。


だから、何もかんがえないか、あるいは人のいうことを聞いて、おかしいとおもったことだけを考えりゃいい、わかんなかったらそこだけを人にきけばいい・・・ということですがな。カンタンでしょ?何も難しくかんがえることなどあらへんがあな。


難しく考えてしまうこと自体、あんさんがあんまり頭よくないというなによりの証拠ですがな。だからそこからでてくる結論も正しいわけあらへんがな。頭よけりゃこんなに結論に達するまでもたついてたりしてるはずがなく、あっというまに人生の目的や理論の結論だして、今ごろすっきりしてるはずだがな。