克服すべきもの、それは に突っ込み!


先日も書いたように、現行の市場経済、というよりも市場原理の熱心な支持者は、自分たちが信じる方法を「制限なく」拡大していくことが、人類のための最大の善である、と主張する。


ああバカバカしいですな。なんですか?あなたの改革とやらでは、人間が一日に必要とする栄養の量がいきなり十分の一で済むようになったり、人が健康的にくらしていけるようになるための薬品の製造費や開発の労苦やブートキャンプのような個人の健康管理が十倍ラクになるってんですか?そうなりゃたしかに世の中変わるでしょうが、そうじゃあないでしょ?だったら、人間が最低限度の(あるいはより人間らしく)生きていけるために人々が払う苦労は、改革しようがしなからろうが同じじゃあないですか。何時の時代にも、退職者や子育て女性や子供など、物理的に外で働くことができない人の養育を負う場合の生産者の負担は同じですよね?生活レベルが上がれば人間らしく生きていける最低の生活費も同様に上がるわけですから・・だったら、あんたは何を変えようとしてんの?かえたところで同じじゃないの?


どうして少しでもかえられるはずの、市場原理や科学技術だのといった実際の世に行われているものをスルーして、どうあがいても全くかえられない、脳の中にしか存在しない、思いだの理想だの体制だのばっかりに目がいってるの?正直、実際的なことは、どうせ自分にはタッチできない領域だってあきらめてて、逆に、観念的なことは前者と比べてミスしても人命にかかわらないために人から叱責されないから、理想だの革新だのといくらでも好き勝手なことがノーコストでいえるから居心地よくみえるからでしょ?


それに、あなたは生活条件の最低レベルだけはやたらとこだわっていますので、あなたの夢見る弱者にいたれりつくせりの社会を実現させるためには、余計にハードルは高めに設定しなければいけないってことをどうしてスルーするのでしょうね。いったいぜんたい、今の世だって、庶民は自分と妻子と老いた老人と福祉目的の税負担を支えてるのがギリギリなのにこれ以上、誰に今以上に生産する負担をかぶせるってんです?


あなたがたが負ってくれるのならいいですけどそうじゃなさそうです。思ってるんだけど何もやっていないなんてニートのアンちゃんさながらの台詞をはいてたり、モノをつくったり社会組織を維持経営していくってことがどういうことかわかってなさそうですから、社会で有用な生産なんて到底できやしなさそうですからね。


とにかく、あなたは”科学技術や進歩は人類はよけい不幸になるからあまり進ませるな!”といっているくらいですから、そこんところはまるでノータッチです。それじゃあ、あなたの理想とする弱者のすみやすい社会なんていつまでたってもできやしませんがな。弱者をささえるのに、いや弱者だからこそ、彼らが並みにいきていけるようには、健康人をささえる以上の、より多くの物資やノウハウといったような高度文明の賜物が必要なのですから。だったら、今以上に大変じゃあありませんか。


まあサヨクだのブンカジンだのは、進歩だの科学だのと、ハイレベルすぎて自分がわからない領域だから、ここに関してはわざと無関心をよそおってたり故意に見下してるのでしょうが・・実際は、科学や技術も重要ですよ。そこをいじらないと、何を変えたって今までとは生活はかわりませんよ。


そして、変わることに参画できる人は限られてんです。生まれつきといってもいいくらい頭がよくひらめきができて、抑圧されようが辺境で生まれようが社会に格差があろうとなかろうが、どんな世界でも上に上っていけてしまう・・・我々凡人には無理です。


だから、我々は”自分は社会をかえられる選ばれた人間なのだからおまえら俺を敬え!”などと悦にいることが認められていません。だけど悦にいりたいひとがこの世にいるから、そういう人はしょうがないから自分でも手に届く範囲のカンタンな、たとえば(経営や経済に比べて)政治とか社会学とか評論とか、(先端医学に比べて)心理とか文学評論とかの二級学問あるいは学問とすら呼べないシロモノへと下って、何も対策できないくせして、現実をああじゃあにこうじゃないとクダを巻くことが、健康的なガス抜きとして社会からかろうじて認められているわけです。


で、こういうやからに、イエスや層化の神様仏様談義だの、政治文学サブカル批評など、カンタンだけどかんがえめぐらしてるとなんだかインテリっぽくおもえてくるグッズを与えて、金とってもうけてる商売人がでてくるわけでっさ。


>たしかに、市場経済の仕組みが人類に一定の救いをもたらしてきたことは、歴史的・経験的な事実である(そして、ただそれだけのことである)と思うから、


何ィ?”た  だ  そ  れ  だ  け”だとォーーーーーー!


おいおい何だその馬鹿にしたようないいかたは!何で自分ひとりだけわかってるような感じで高みにたって一般のひとを見下してるような言い方すんだよ。”人類に一定の救いをもたらす”という、その”ただそれだけのこと”が浮世では凄く大変なことなんだよ!アホか?逆にいえば社会や個人がそれができていたらば上出来ってことだよ。


っていうかぶっちゃけ世の中それがすべてじゃね?あんさんは働くってどういうことかわかってる?”人類に一定の救いをもたらす”ってことが個人に課せられた最優先の義務すなわち労働じゃね?投げ出したいくらいしんどくて、でもだからこそ価値があって、やり遂げてる人に対して世間は立派だとおもってんだよ!


あのな世の中ってのはな、神様唱えてる教祖サマがおっしゃってる戯言みたいにな、スペクタクル映画や講談小説にでてくるような、いきなりすごい救済なんて無いんだよ。凡人、いや不世出の天才ですら、こつこつとしかすすませられないんだよ!それですらいっぱいいっぱいで立派なことなんだよ。大方の凡人は進めようにも進めることすらできず、進めることに参画すらできず、逆に足引っ張ったりしちゃうんだよ。


これじゃ、あんさんは聖書の読みすぎでキリストの奇蹟相手に脳内でカタルシス物質発散しまくりのオナニー野郎以下になってまう。聖書も小説もマルクスポストモダンも全部同じだよ。社会をまとめあげる接着剤となったりするから、全部が全部悪いってわけじゃないけどあまり役にもたたない、はまるとそれに時間やエネルギー奪われて、世に役立つ他のこと、実際的なことに個人の労力がいかなくなるから害毒ってわけ。テレビやゲームとおなじ。僕はブログ書きは仕事が切れたときのストレス発散兼無料の社会貢献として割り切ってるからいいんだけどね。


>実際は、仕組みを本気で変えてしまえば、生産に注いでいる労力はもっと少なくても、みなの生存に必要な富の水準を十分維持できるのかもしれない。


心配しなくてもいいです。あんさんにいちいち言われなくとも、エリートと呼ばれる方々は、研究室とか大学院とか経済シンクタンクなどと呼ばれるところで、あんさんの憂慮してることを実現すべく一生懸命がんばってますから・・


>それはまたそれで、たいへんな勇気や労力のいる変革じゃないか、とも思う。


たしかに、この世をがらりと変えるかも知れぬ、明日行われる画期的な外科手術や、十年がかりのベンチャープロジェクトや大学院での研究が、ささいなミスのために失敗し、挙句、ライバルに先をこされて今までの努力がパーになりやしないだろうかと心配して夜も眠らない毎日がつづくというのは、”たいへんな勇気や労力のいる変革”ですわな。


>それ以上のことを判断する材料が、自分にはないからだ。


判断したけりゃそれ用の知識を身に付けなさいとしかいいようがないですな。自分の言うことを世間の人に聞いてもらうためにもね。世の中、コストもはらわないのに人が自分のいうことをきいてくれるなんて、そんな都合のいい話はないがな。


>ただ、このシステム(市場経済)がうまく稼動したとしても、それによって生産される富が、すべての人の生存(生命を含む)を維持するようにうまく分配されるのでなければ、最終的には意味がないと考える。


バカだよなあんたは・・・ほんとつくづくそう思う。聞くけど、あなたのいう”上手く分配”ってどこまでのことを指してんの?あなたのいう理想的な分配なんて完璧すぎてこの世に実現できやしないよ。


たとえば、”ある会社がばんばん成功して”上手く稼動”して雇用ももたらし末端従業員も曲がりなりにもそこらへんのドキュン企業よりはましな給料をもらえるという、普通に考えたらこれ以上ない理想の状況だったとしても、


”いくら良心的な会社といっても、今ホームレスしている、某社員のイトコの兄貴の知り合いまでは雇ってはくれなかった、だからその会社は”分配が不十分”だから、いままでのこの会社の努力は全部意味が無い!!”


っていってるようなもんだよ。極端かもしれないけど、あなたのかんがえかたを認めるとそうなるね。


そんなことを、これに似たような立場の現実の会社の連中に言ってみろや?鼻でわらわれるか怒り狂うかどっちかだぞ?一定の期間、まがりなりにも一定数の人やその扶養者をくわしていけてたら、その活動は意味があって、はじめから無かったよりずっといいことで、社会になんらかのプラス与えてるって考え方はあたりまえでしょ?



一体全体、あなたのいう完全な分配ってどんな状態のことを言うわけ?コンマ一ミリものミスも許さない、確率からしたら三億年に三秒程度出現する頻度で、人の脳の中くらいしか地球上に存在し得ないくらいの完璧なものだとしたら、妄想とかズリネタとかいわれるものと大差ないくらいに、この世にありえない存在ですよ。そんな無益なものにばかりかかわずらって現実を批判したところで、果たして人は前にすすむことができるんですか?


>人類全体」が幸福になっても、その進歩のために不要と見なされたり、「全体のためにやむを得ず」犠牲にされて、そこから除外(排除)されてしまう生や生命が生じることを、許すことは出来ないからである。



あるポジションを得れば同じかずだけ得られない人がでてきますが、仕事ができる最低のラインってのは絶対的なモノではないのですか?藤川球児桑田真澄の球の速さをうばって抑えの切り札のポジションにいられてるのですか?たとえ藤川が今の地位を誰かに”譲渡”しても、その投手が藤川に匹敵する防御率をたたき出せないから他の投手は藤川のポジションを得られないのではないですか?たとえどんなに病院に人手が足りなく、反面医師余りで小児科医希望の医師の候補が空き雇用に殺到したとしても、そのなかの最優秀な者でさえ小児科医に必要な能力のハードルに達していないようであれば、病院側は一人も雇いませんよね?これと同じじゃない?


ようは、社会が用意できるポストと、個人が社会に用意できる能力には限界があるってことでしょ?


一軍で10人やそこらしか投手として投げさせないのはプロ球団の二軍投手に対する見殺し行為ですか?浅田やミキティーしか大会に出場させず注目せず、ヤフーBBしかプロバイダ業務で成功させず、ポール=マッカートニーの曲ばかり買ってばかりでスペンサーデイヴィスグループのキーボードの人を作った駄作に一顧だにしないのは消費者の犯罪ですか?たすけてあげられないから音楽業界やスケート業界のシステムには欠陥があるのですか?


欠陥でも冷酷でもなく個人が可能だったり社会が用意してあげられたりできる消費の限界でしょ?いくら腹へっても一人でラーメン100杯は食えないしCDなんて一人で何千枚も買うことなんてできないしお気に入りをが一枚できちゃえばマッカートニーやウタダ以外はいらないでしょ?野球ファンだって何千億人いるわけじゃないから日本で作れるチームなんて数十が限度だから先発投手なんて百人程度しかなれませんよね?なおかつ、二流投手よりも7イニング目で疲れたエースの方が打者をおさえる力に勝っていれば彼を続投させて二流投手の登板チャンスは奪われたままですから投手枠は有限ですよね?売れっ子ラーメン店主や天下統一成功した戦国武将やビジネス成功者だって同じですよね?日本はひとつなんですから業界スタンダードや統治者なんて一つですみますよね?



だったらシェアすればいいじゃないってサヨはよく言うけど、じゃあ、投げてない奴には給料はやれないと上が言うから、今度、藤川が投げるべき機会に50人の二軍の投手仲間に一球ずつなげさせて藤川の50分の一の給料をもらいたいと二軍投手が提案したら鼻で笑わない?”そんなことしたら打たれちまって阪神まけちまうだろが。そしたら甲子園ガラガラになってお前の給料もはらえなくなるよ。だからお前らは登板させてもらえないんだよ”。って呆れませんか?あなたの社会にたいする不平不満も、この二軍投手の球団に対する提案とおなじようにばかげているとは思いませんか?少しでも投球術の優れた投手に独占して登板機会を与えないと、”ああ、ちょっくら遅く球投げててもレギュラーになれるんだ”って投手が思ってしまい、彼らの意欲低下によって投手の平均の球球がじわじわと遅くなりやしませんか?そうなったらファンもゲームを楽しめなくなって野球が衰退してしまい、今まで二軍で600万円レベルの投手がたとえエースになれたとしても、おなじ額の給料、あるいはそれ以下しかもらえないってことになりやしませんか?そうなれば、ファン、球団、選手、彼らすべてが損をすることになりませんか?


>「現在の死者や弱者を放置しない方が、将来の全体の利益のために合理的だから」という理由で、いわゆる「新自由主義」的な主張や政策に「合理的に」反駁することは、どうであろうか。(おそらく”合理的に反駁”というのは税金で弱者を助けるということを指しているとおもわれるので、そうみなしてコメントします)


だからどうしてやたらと人をたすけるのに税金使うのですか!税金って人が生産できる人が”余分に”生産してくれたものですよ?だったらなおさらあなたの大嫌いな”より一層の生産の拡大”が社会に必要とされるのですよ。税金を必要とするということは弱者を含む労働可能な人間のだれがしかを余計に苦しめるということだから、だれかを一定量苦しませねばならないことにかけては、自由主義となんら同じ、あるいはそれ以上ですよ?


そうしたくなければ苦労を増やさずにパイを得る方法、たとえば自分が所得を増やして扶養可能な人数をいままでより多く増やしたり、ゴミ発電や工作機械の簡便化みたいに、無から有をうむような付加価値の高い発明を成し遂げてそれを使って弱者を救済するコストにつかったほうがいいんじゃない。そのほうが建設的っておもわない?


しかし、弱者を救済したいという主な理由が、自分が社会で甲斐性がなく弱者そのものなので、いつかは転落しそうだから(あるいは、今転落しているから)自分を救う網をつくっておきたい!という狙いならば、いかに慈善を装っても、助けたいのは他人でなく自分ということになり、結局は”そのためには誰か自分以外の人が苦しんでもしょうがない”というエゴになってしまいます。ちょっと前にアメリカで、保守派のほうが寄付金が多かったという社会学のデータもありましたし。結構図星なのかもしれません。


>市場原理を最優先にするということは、この「参入するための十分な富」を持っている人たち(※註 おそらく”持っていない人たち”の間違い)を何らかの方法で救済することを行わないことを意味するだろう。


市場原理を最優先しなければ生み出せないほどの、毛沢東的政策が逆立ちしても不可能なほどの多量の余裕を社会につくり、それをもってして持たざる人に十分な福祉を充てようとしていますので、なにも救済をしようとしてないわけではないので氏の言い分は的外れです。



>そういうことを言わないとしても、そもそも市場経済自体には、富をうまく分配するという機能は備わっていないように思える。


確かにそのとおりです、ですが、全部の層での全体量の増加によって下を底上げする能力をも分配の成果とみなすならば、機能は十分にそなわっているといえますので氏の言い分は少し外れています。自由主義者だって競争だけやって再配分しなくていいなんて思ってやしません、車の両輪のごとくどちらもやるべきだと思っています。ただその比率を極端に変えようとしていないだけです。


>そういうことを言わないとしても、そもそも市場経済自体には、富をうまく分配するという機能は備わっていないように思える。たしかに市場原理の働きによって、生産性の向上は果たされるかも知れぬが、富の分配は、個々の生存の尊重という観点から言えば、不十分な偏ったものになるだろう。なぜなら、市場原理を競争と考えると、競争において「敗れて」、市場に参入するための十分な富を得られない者が、かならず出てくる


そういうことを言わないとしても、そもそも分配機構自体はノンプロフィットな分野であり、富の総量そのものを増加させる機能は備わっていないように思える。たしかに政府の徴税などの働きによって、十分に生産できた年に限っては、下層の人たちへの公平な分配は果たされるかも知れぬが、通年で考えると下のものへの十分な量の分配は、個々の生存の尊重という観点から言えば不十分なものになるだろう。なぜなら、分配の原理を量的に考えると、くばるべき富の量そのものが不足していれば、当然、全員に十分な量を配ることが出来なくなるのだから、分配において「あぶれて」、十分な富を得られない者が、かならず出てくる・・・

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もう一度氏の発言を繰り返しますが


>なぜなら、市場原理を競争と考えると、競争において「敗れて」、市場に参入するための十分な富を得られない者が、かならず出てくる



おそらく機会の不均等、貧困の再生産のことを指摘しているのでしょうが、これって人が悪いの?っていうか、人がなんとかできんの?と思うのですが・・


なぜなら、これらはもともと自然に存在していますし、また人為的活動起源のものでも、付随する必然的なものですからこの世から消しようがないですし、負のスパイラルが一定個所に存在することが自明であるのなら、人はそれらを根絶することよりも、そこに陥らないよう工夫することにエネルギーを費やしたほうがよほど効率がいいからです。


これ(=脱落者が必ずでる、なおかつ脱落したものが次も脱落しやすくなるという負のスパイラルが存在する競争)をダメだといえば、野球のペナンとレースやスケート選手のオリンピックを目指す行為、二科展や芸能活動さえもができなくなってしまいます。たとえば野球では


なぜなら、ペナントレースを競争と考えると、競争において「敗れて」観客動員が下がり収入が減り、次の年に優勝争いできるだけの十分な戦力を得られないチームが、かならず出てくる・・・


なーんてことがいえてしまい。人気や収入において楽天が日ハムと格差がつくからといってプロチームが野球する行為そのものが否定されてしまいます。もちろん、企業同士の開発競争はもちろん、我が子をちゃんと育てタイと願う、親同士のおだやかな緊張関係といったものすら否定されるべきものとなってしまいます。


企業間の生産活動を競争とたとえると、新製品売り出し競争に失敗した企業は世の中の評判や開発する原資の蓄積が低下し次の製品を開発しにくくなるので、生産活動は企業間格差をもたらすのでけしからん。


民族間の豊かな地域をめぐる抗争を競争とすると、侵略を受けて豊穣地域から追い出された、あるいは侵略に失敗し豊穣地域を手に入れられず荒廃地域への居住を余儀なくされている民族が必ずでてくる。住んでいる地域が荒れ地な寒地などで、ほとんどのエネルギーを、水汲みや耕作などの既存の生活を維持することに費やされるので、多数の兵士や優れた武器を開発する余裕が捻出できず、また豊穣地域民族はその逆であるので、豊穣地域を求めての侵略が撃退される確率が高く豊かな国にすむことが難しい。



子育てを競争とたとえると、世帯の間で年収の多寡における家賃支払い競争によって土地居住の争いに敗れ、生活環境が充実していない家賃の安い地域にすまざるをえなくなり、我が子に十分な教育や雇用をあたえられない親がかならずでてくる。


こんなこともいえてしまいますね。


そもそも教育環境が充実していないから人は北極や田舎にすみたがらず安く、逆に充実していれば人は競ってすみたがり,それじゃ誰だって田園調布に住みたかろうってことで、そこ(豊穣国土や人気都市)にすみつづけるためには北極よりも何倍も稼いだり国防費をついやさねばならないという市場の不平等是正機構があるわけですから。で、そこにすめば我が子が悲惨であるとわかっているゆえに、人の親や民族集団の頭はそんなところにすまなくてもいいように工夫を凝らすわけで、そのことを世間では養育とか親(国家)の勤めとかいうわけです。で、これはどうしようもないことであり、そんなこといったら人間はなにもできなくなります。現にいまは北極や洞窟の中にすんでる人は一人もいませんし、人がすんでても生活や教育にいちじるしく不便な地域だって、昔にくらべたらずいぶんと改善されています。っていうか改善されたからすめてるわけで、改善できなかったら(費やすコストが多すぎて改善に着手することが不可能だったら)人は住めていられないというわけです。野球チームや企業だって同じです。最適へ最適へと動いて今の状態になっているわけですから、これ以上うごかしようのないパレート状態であり、下手に動かすより自然の流れにまかしていたほうがましだというわけです。

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>むしろ、そうならなければ、「市場の論理」としては困るだろう。ところが、市場原理を最優先にするということは、この「参入するための十分な富」を持っている人たちを何らかの方法で救済することを行わないことを意味するだろう。そのような「非市場原理」的な介入というものは、市場の機能を損なうと考えられるだろうからである。


むしろ、そうならなければ、「救済機構としての政府の論理」としては困るだろう。”そうでもなけりゃおれたち政府を弱者はたよりにしてくえず、俺たちは庶民に対してでかい顔が出来ない!”ということだ。ところが、市場原理を最優先にするということは、この「分配し尽くせるだけの社会に蓄積された十分な富の量」を持たざる人たちにたいし何らかの方法で救済することが、ゼロではない程度に可能なことを意味するわけだから、そのような「市場原理」的な非介入というものは、下層にたいする生活の向上を、わずかながら(少なくとも分配にかまけて生産を全然できなかった社会よりも多量に)バックアップするとかんがえられるからである。


>いずれにせよ、「非介入の市場原理主義」の道をとるなら、多くの人が市場の仕組みからは脱落し、そこでは救われなくなることは不可避である。


いずれにせよ、「介入しずぎの分配原理主義」の道をとるなら、多くの人が分配のおこぼれを得るための人的コネクションから脱落し、そこでは救われなくなることは不可避である。


新自由主義者が弱者を切り捨ててるのでも再分配に興味がないのでもないことがわかります。手段が違うだけです。


個人の独身男性が、責任あるポジションにつけるよう自分のスキルをもってきて、今まで一人しか食っていけなかったのを2人位の極つぶしを食っていかせることができるよになり、だれも嫁に取ってくれず、まともな男がみんな結婚していて、そこらへんの無職のDV男くらいしか婿候補としてのこっておらず、こんな奴と結婚するいがい子孫を残す方法がないのね。とあきらめている女性をお嫁さんにもらい、まだ後一人養っていけるのでお嫁さんが赤ちゃんも安心して産めて、社会の労働人口をふやしたりすることも、弱者救済の一つの道です。


たとえひどい環境の仕事であろうと仕事場をつくってやり、。中国人に仕事をとられ収入ゼロにさせることを防いだり・・・なるたけ競争や発明をバックアップさせてネットカフェが弱者に至れり尽くせりのサービスができるくらいに社会をお膳立てしてあげたりすることも、弱者救済の一つの道です。


そのあとの文章に関しては、人文学問の悪癖にもれず、やたら凝っているわりには何の中身の無い文章だとおもいましたので解説は割愛します。