『戦後責任論』に突っ込み

日本の死者への「哀悼」とは何か。もちろん私は、たとえ「侵略者」だった死者でも、死者となった肉親、友人、知人等を「哀悼」し、「弔い」たいという残された者の欲求を理解する。そうした欲求は・・・・

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国が祭祀をおこなうことをケチつけてるんだろうが。。これって、私的な人手だけではまかないきれない大規模な案件たとえば葬祭や浄化槽導入を、それ以上の組織、たとえば隣組や同好会に主催させたりするいう市井の光景どう違うのですか?国というものも、こういった協同組織の延長上にあるとは考えないのですか
個人ではやりきれない大きなことをメンバー同士助け合いするというやくそくのもとに互助組織が自然と現出するっていうのは時系列的にも空間的に見ても自然な現象でしょ?


なのに、助け合い会やサヨク運動組織は全然抵抗無いのにどうして国となるとあなたがたはとたんに拒否反応を示すのですか?集団ってものは性格は同じでしょ?同好会はアコギなことしないが国は徴兵したり課税したり悪さばっかりしてるというのなら、それは規模が大きいから責任範囲もおおきいのでそこまでしないとまとめていけないからでしょ?身内の同好会だって国くらい大きくなっちゃったら今の国並みに強引なことしないとおそらくやっていけないはずだよ。今の国だってアンドラ王国やアニメ同好会なみにちっちゃくなったらアコギなことなんて全然せずにほほえましい光景として朝のニュースにでもなってただろうね。


両者の性格が違うのは単に規模が違うから違うように見えるだけで根本的な質は同じなんだよ。そこを違うもんだと見てくれだけで誤判断しちゃうと、いまのあなたみたいに”国は悪い!だけど同好会はいい!”と論理の袋小路にはまっちゃうわけよ。”ヒグマは悪い!、ツキノワグマはいい奴!”って同じクマだろうって。大きさがちがうから悪さの度合いがめだってないだけでツキノワグマがヒグマくらいにでっかくなったらやっぱりヒグマ程度に悪さが目立つとおもうぞ。ヒグマだって手のひらサイズにおさまったら植木をかじる程度で悪さは目立たないだろうけど、それって、大きさが変わっただけであって気性の荒さという質的なものはでかいヒグマと同一だからね。



>こうして高橋氏は、他者との関係についての問いを経ない、いかなる領域(共同性)の保守も、最終的には認めない立場をとるのだろうと思う(そして、この立場は正しいと思う)。>


いえ、間違いだと思います(笑)。こんなバカなインテリ御用達の屁理屈に首うなずけてるようじゃあんさんの判断力もたかが知れてますな。

共同体よ俺の個人領域に干渉するな!・・・って。程度はともかくそれ言ったら人は人どうしでなんにもできないだろうって・・・”人は、手におえない案件については人と何かを協同で行わないと個人として存続していくことすらもおぼつかない”ってことを両者が基本的に認めた上で、どの程度まで拒否するのが認められるかって対話するならわかるけど、これを根本的に否定しちゃったら極論からスタートしちゃって暴論にたどり着くのが落ちだと思うね。ごく一部の者しかはいりこめない、それこそカルトの領域にいきつくのがオチだよ。